更新される日々
引きこもりは日々作られる。
それは、引きこもりが日々増えている話しではない。
10年以上引きこもった膠着した状態も、日々更新されている話である。
引きこもりはいつだって止めることができる。
そして、事故のような出来事があり、突然に止めなくてはならない時がくる。
長く引きこもりを止められそうにはなくなると、本人や周りの家族も、
その天災のような出来事を、待ち続ける毎日を過ごす。
お互いの動向をひっそりと探りながら。
引きこもるのは良くも悪くも行為である。
行きたくもない仕事場に行くことや、行きたくもない学校に行くのと同じように、居心地が良いとはいえない家で引きこもることを毎日選ばされ続ける。
家や家族が外よりはまだ居心地の良い場として選ばされる。
引きこもる人を気楽でいいと妬んだり、引きこもっていれば感じる罪悪感のようなものは、仕事場や学校に行けば起こるだろう嫌なことを避けているようだからだろう。
だが、引きこもっていても嫌なことは起きる。
やりたくもないことを選ばされているならば、
学校に行こうが仕事場に行こうが引きこもろうが、
それは選択してはいない点では同じことである。
引きこもっていても選択肢はあると、家族や周りの人は言うだろう。
本人も、引きこもっているのは自分のせいだと考える。
親は言う。
あなたがやりたいことをやってくれればいい、大学に行くのならば支援もすると。
あなたさえ望めば、世間一般的に望まれるようなことを家族は望んでいるのだと。
けれども、自らの命を削り、今の生活を壊してしまうかもしれないような生は望まれてもいなければ、うちの子に限ってそのような情熱があるとは信じもしない。
我が子には死なないでほしい、普通であってほしいとは望めども、人に迷惑をかけてまで、自らを焦がすかもしれない生き方を親は望んではいない。
そのような情熱を外では隠しきれなくて、引きこもらざるを得なかったかもしれないのに。
それではやはり引きこもる他に選択肢はない。
家族や周りの人からすれば、傷つかないでほしい守るべき命であっても
本人からすれば、試すしかない一度限りの傷だらけの生だとは、想像できない。
本物だから、不安でもあり恐ろしくもあり躊躇してしまうのだ。
引きこもる状態にある我が子を心配する親御さんと話しをしていると、社会に対する認識に共通点がある。家の外は、誰も信頼できない厳しい世界であると。もちろんその社会認識が全ての子どもを引きこもらせるのではないが、そのような認識のもとで、競争に勝つための養成に失敗した子どもは引きこもることになる。
家の外が、今の社会が厳しいのは間違っただけの認識ではない。
だが、そういった社会に誰が出て行こうと思うだろうか。
人にだまされないよう勉強をして、厳しい社会から身を守るために家をもち、そのためには人から奪い取ってでも仕事や収入を得なくてはいけない。外の世界は厳しい、だから家族はあたたかくなくてはならない。そのような家を守らなければならない。そしていずれ自分で家を持つためにあなたも頑張りなさい、引きこもっていてはいけないと。頑張りなさい頑張りなさいと、声をかけるたびに社会が厳しい認識が強化されることになる。守られた家で、人と関わるためには強くなくてはと、独り身体を強ばらせる。
どうやったら、そんな厳しい社会に出て行くことができるのだろう。
いったい誰が、外の世界は美しいと。人に理解されることはうれしいことだと彼らと話しができるのだろうか。あなたの持っている望みを、他人とともに叶えることができる世界なのだと、そのように社会は甘くもあるのだと。
彼らに話しかけた人はいたのだろうか?
そのように世界を信じることが出来たのはいつだったか?
2015年2月20日 高橋 淳敏