NPO法人 ニュースタート事務局関西

発達障害の「うそ」

By , 2015年1月19日 10:00 AM

読んでいただければ分かってもらえる話しだが、ここで発達障害そのものが存在しないと言いたいのではない。むしろ「障害」は日々形作られてしまっている。発達障害のあり方、その一般的な認識がおかしいのではないかと問いたい。発達障害を持たされている人が嘘を言っているのではなく、その専門家といわれる人たちはじめ周囲の人が発達障害の「うそ」をついていると。そもそも「障害」は誰が作るものなのか?近年出てきたこの発達障害という言葉は、そのことをまた考えさせてくれていると、皮肉な言い方もしてみる。
東大入学生の親の5割以上は年収950万以上
東京大学に入学する子どもを持つ親(平均40代後半?)の年収950万円以上の子どもの割合が、57%(2012年 東京大学学生委員会調査)とのことだ。これは今に始まったことではないが、高学歴な親がより高収入を得、その子に学習塾などお金のかかる教育を受けさせるからか、偏差値の高く学ぶには環境の良いだろう大学を受験する。その移行から落ちる子どももあるが、逆に上がっていくのは摂理に反することもあろうから、いろいろと無理を強いられる。日本の社会が豊かであり、機会は平等に与えられていると言っても、結果はお金を持つものが教育においても世代を超え優遇され続けられている。さらに近年大きく問題になってきたのは、少子化で下り坂な経済状況下において、この格差が縮まるどころか、それぞれが自らのよりよい生活や資産を守るためにもこのような格差こそが拡がり、世代を超えた移行はより強化される傾向にある。
ただ、多くの人は東京大学に行きたいのでもなく、上下が転覆するような革命を望んでいるのでもない。むしろ、身近にいる高学歴出身者に偉そうに言われながらもその背景を省みることははばかられ、東京大学に受かったようなわずかな人をたとえに挙げて、自らを鼓舞し現状まだ努力が足りないと少し上や、最近では現状維持くらいを目標にして頑張ることが美徳のようにされている。あるいは、そのような努力は無駄だと諦めてしまい、(いろんなことは無かったことにもできず、)引きこもる日常に生きている。誰が手にしても価値は変わらない「お金」の側に問題があるはずはないと疑うことも出来なければ増やすだけだと、買わなければ機会は与えられない宝くじを買い続けさせられる。格差(英語では不平等と訳されている)といわれる社会問題の核の部分は、個人の不断の努力ではいかんともしがたい、不毛な競争原理であり、富の集中、物質的な意味に留まらない貧困の再生産である。小中学校は義務教育なので関係ないというよりは、先生の努力もむなしく社会や大学の有り様に多大なる影響受け、いじめですら止められない現場に甘んじているという方が近い。そのような社会の影響をできるだけ受けないように、近年の学校は門を閉じる傾向にあるが、箱庭の中で起こる事なかれ、生モノであるはずの学校教育を行き詰らせ決定的にダメなものにしてしまってはいないだろうか。
「障害」というものが、私たちの社会の中で形作られている
このような見解には違いもあるだろうが、発達障害を語る上において(人のことを或る括りで語る場合はいつもだと思うが)以上のような社会的な背景や、実際の教育現場、あるいは家族の在り方などを具体的にも想像するのがいいだろう。発達障害といわれるようになった今からちょうど10年前の2004年12月(発達障害者支援法)、それは器質性の障害とされた。要するに脳機能の欠陥(過剰?)であり、治ることはなく個人が一生その与えられたハンディキャップを持って生きていくべき障害だというような規定をした。専門家による一般的で代表的なのは、素因(器質的)と環境因に分けたような解釈であろうが、糖尿病などを例に上げ、「同じように発達障害の大多数は、生物学的な素因を強く持っていることは明らかであるが、引き金となる環境状況によって増えるということは十分に起こりうる」(2011年、杉山登志郎、「発達障害の子どもたち:講談社現代新書」)というような考え方である。分かりやすいようにも思えるが、ここでも生物学的な素因を強く持っている事のほうが、その障害における重要な原因とされていて、例えば障害と言われなくとも多くの人がその素因をもっているかもしれない可能性などについては考えられてはいない。仮にも糖尿病を例に上げたのならば、現代の食生活などにおいて増加した環境因こそが問われ、改善すべき問題があると呼びかけるべきであるのに、改善の期待できない糖尿病になってしまった身体を治療しまた元の環境に戻そうというのに近い。特殊学級などで他者と関わりを持つことによって改善されたなどの報告も多いが、素因を強調するのであれば、普通学級に戻れば解決される話でもないはずだ。発達障害の、その「障害」というものが、私たちの社会の中で日々更新され、形作られているとなぜ考えられないだろうか。

生まれながらにして貧しい家庭というのは、昔は何とかしたければできる環境因とされただろうが、今は素因といってしまった方がよさそうで、その不平等こそ発達障害ではないが「障害」と言われるものに近くなってしまっているのではないか?発達障害の特徴としてよくあげられるのは、社会性の欠如、コミュニケーション能力の欠如、想像力の欠如などである。それがそのまんま、発達障害とされた個人に対する社会の側の対応と一致してはいないか。社会は発達障害者に対して一括りにしてしまうなど社会性を欠き、コミュニケーションする能力を欠き、その人がどのような場面を生きてきたかなどの想像力をも欠いている。大した発達もしなくなった現代の社会において、その周囲の人がどんな「障害」を個人に課してしまっているかということこそ、社会がまた発達するためにも改善すべきであるし、学ぶべきことであるだろう。

2015年1月15日 高橋 淳敏

コメントをどうぞ
(※個人情報はこちらに書き込まないで下さい。ご連絡が必要な場合は「お問い合わせ」ページをご覧下さい)

Panorama Theme by Themocracy | Login