NPO法人 ニュースタート事務局関西

声を上げられない

By , 2014年8月18日 8:58 AM

毎週金曜日の夜に
毎週金曜日の夜にカフェコモンズで、コモンズ大学というイベントをやっている。食事しながら、お酒を飲みながらの勉強会といった集まりで、特にテーマが定められていない回が多い。大学のイメージがあるのか講義を聞けると思って来られた方が、そのあまりにも適当なスタイルに怒ってしまうような人もあるが、勉強はかしこまってするのではなくて、いつでも誰とでもできるのだと、一人になってしまってはいけないがやっている方は大真面目に毎週集まっていたりする。そこに、企画が持ち上がったり、検討すべき課題が持ち込まれたりする。今は、月に一度「ルポ虐待」という新書を章ごとに分けてゆっくりと読んでいるというか、その事件をめぐって意見を交わす回がある。この新書は、2010年に大阪市内で2児を、密閉した部屋に置き去りにして死なせた事件を、その後に追った内容である。著者である杉山春さんは、母親の減刑を期待するところもあってか母親を精神的な病にさせたがっているようなところがあるが、結局司法は病気ともせず母親一人に全ての罪を負わせるにいたった。この本から教えてもらった事実を知って私の感想は、母親は病気ではなかったし、母親は悪くないと考えた。
声を上げられない状態
母親のお父さんの取材で「助けてと言ってきたら助けてやろうと思っていました」という言葉がある。シングルマザーとなって、ずっと大変だった状態で、最後まで母親は誰にも助けてとは言えなかった。それは、「子供は母親が育てる」という考えがある以上、誰に助けを求めたところで助からないと思っていたのではなかったか。この事件の母親も子供は母親が育てるものであるという考えがあったから、ここまで悲惨なことになってしまったのだと思う。母親が育児を人前で放棄できたなら救えたかもしれない命である。

引きこもりも声を上げられない状態にある。そこには、例えば「仕事はしなくてはならないものである」という考えが渦巻いていて、親も本人も周りの社会もそのように考えているので、声を上げることが出来ないということもある。母親が子供を育てることも、仕事をすることも、「良い」と思われることである。でもその「良い」と思われることが自分に出来ないこともあるし、すべての人にできるわけではない。むしろその「良い」と思われることは、ほとんどの人は出来ているふりはしても、できていないことだったりする。この事件の母親は周りから見て「良い」母親であることを、努力していたような話がたくさんある。「良い」母親にはなれなくて、「良い」母親でない自分を人に見せられなく、子供を隠し、ないものとしてしまった。この母親だけに罪を負わせたところで、ではどうすれば良かったというのか、見えては来ない。世間は「良い」母親でないことを今以上に責めるようになり、子育ては今まで以上に隠されていく。そしてまた隠されるほど、母親の責任はより重くなっていく。母親だけに罪を負わせた判決は、間違えであるだけでなく、このような事件をまた繰り返させていくものであろう。

「私たちのことはなかったことにしたいのかな」
人は社会的な存在である。だから本来は母親一人で子育てはできるものではないはずで、この事件の母親はシングルマザーとなり仕事もやりながら、子供を預けていなかったのだからどうやったって無理であったはずだ。社会や生き方はだいぶ変わってきたのに、学校であったりそういった制度はほとんど変わっておらず、今の社会で子供を育てようなんことはあまり考えられてはいない。引きこもりは子育てとは違うかもしれないが、人が社会的な存在であるとするならば、ややもすれば孤立し声もあげられない同じような課題を持っているように考えた。

この事件の母親がインフルエンザにかかった時に、ない事に元夫や自分の父親に頼んだのだが子供を預かってもらえず、その後、下の子供が一歳になった誕生日の時も誰からも連絡がなかった時に、「私たちのことはなかったことにしたいのかなって思いました」という発言があるのだが、それが事実であるとも考えるが、なんでもそうだが、ないことにはどうやったって出来ないのだ。
2014年8月14日 高橋 淳敏

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