ニュークリアエイジ(年老いた現在)
未来が明るいというとき・・・
経済的に貧しい国でも子供が産まれてくるのは、かつての日本もそうあったように、産まれてくる子供に希望があるからだと考える。それが労働力であれ、退屈な日常を変えてくれる存在であれ、いつの時代どんな地域でも新たに誕生する命を通してそれまでにない自分たちの未来を見ることだろう。日本の出生率は下がり続け、生まれてくる子供の数は減っている。私たちはそんな子供たちにどんな未来を見ることができているか。子供がいるだけでも明るくなるもので、ニワトリが先か卵が先かではないが、子育て支援を拡充させるなどはその産めよ増やせよ政策の方だがうまくいってはいない。そうではなくて、ニワトリが卵を産もうとしなくなったわけで、社会が子供を通して見る未来に希望を見出せなくなったのではないか。再び子供の存在する社会が今とは違った形ででも訪れるとするならば、そのことについて考える必要があるだろう。
未来が明るいと言うとき、10年50年100年と変わらず安泰で平和な日々を過ごせるからではないと考える。子供がいるだけでも明るく感じられるのもそうだろうが、今までの価値観を覆すような形で新しい考えや力が芽生えてきて、そういった新しい流れは不安なところはあっても未知で、それまでにはないやり方でもって行き詰まっている「現在」はどうにかなるか全く異質なものになりそうだと、そのように不穏かもしれないものを受け入れられた(受け入れざるを得ない)ときにこそ未来は明るくも感じられ、希望を持てることがある。結局、例えば現在の社会が、大人しく穏やかであるはずがない子供を保護管理するだけでなく、どのように付き合っているのかなどが問われているのだろう。リスク管理などに明け暮れている今の社会で、そのような寛容さはなくなりつつある。
今ではどう処理することもできないとんでもない有害物質と判明してしまった原子力発電はかつての明るい未来の象徴であった。コストもかからず、クリーンで無尽蔵にエネルギーが得られるとほとんどの人がそう信じていた、管理さえできればと。今の30代や40代はそんな原子力発電のエネルギーに未来を見た親から産み落とされた世代だといえる。そうでなくとも、科学技術の発達と世界経済の盛り上がりに明るい未来を見てとり、新しく誕生した子供たちに物質的な豊かさや精神的な自由などそれまでにない未来を親たちは見たのであった。だが、その子供たちであった今の30代40代を筆頭に引きこもるなどして、今度は次の世代の子供たちを通して見ていく未来は多くの場合が拒否されている。国や政府はエネルギー問題や社会保障、赤字国債などの問題を無いこととして先送りにして、「大丈夫だ、今の経済はなにはともあれ、このままごまかしごまかし従来のシステムを強化し乗り切るしかないのだと」消えていく運命にある古い灯りを国家権力や軍事力まで持ちだして、自分たちさえ日本さえよければいいと守るために国民を脅迫もしている。私たちも自身を傷つけられるようで、ささやかな今の生活は失えず一つ一つは追求せず深追いさせられ戻れないところまで来させられた気でいるが、それでも一部の理屈で暗くならないようにしか努めない今の社会に明るい未来を見られないでいて、それでいて未来に向けて子供を産むことも、はばかれているのだろう。
うす暗い場所で、産まれてきた
逆に、私たちは日々不安にさせられるのが常となっているがそれ故に変えられずにおり、未来は「年老いた現在」というくらいでたかが知れてしまっている。例えば、6年後2020年に東京オリンピックが開催され、今から猛練習をしている若い世代がメダルをとったり、最新の建築物や技術に一瞬驚かされるくらいのことはあっても、東京の治安が悪くなり警備が強化され関係ない野宿者が周到に排除収容され、未だ続く福島の惨状はうまく利用するようにして隠され、オリンピック反対デモくらいは行われるだろう、うす暗い未来は予期されている。そのようなうす暗いだけの未来では、今よりも子供の存在は目立つこともなく、そのことがまた2020年という「現在」をより一層暗くすることになるだろう。それでも、新たな原子力発電や、軍国主義のような閃光に目を眩まされることは再び繰り返さず、先人の失敗から学び避けたい「年老いた現在」でもある。このようにうす暗い場所で、ただ産まれてきた赤子に、一人の引きこもりに、そして私たちの日々のコミュニケーションの中に宿る小さく消えてしまいそうだが消えない灯りを、それだけを頼りに今を形づくり、新たな時間を進めるしかない。未来を未知なものとして想像できること、そのことが現在を明るくもするはずだから。
2014,3,13 高橋淳敏