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支えあえるのか?

By , 2013年6月17日 10:05 AM

一人で踏ん張って立たなくてはならないのか

「人」という字は二人のひとが支えあって立っているというのはもう古い話なのか、最近では「人」という字は一人の人間が足を大きく開いて大地を踏みしめ立っている姿であると言っているのを聞いた。なぜ、一人で踏ん張って立たなくてはならないのか、誰かが蹴落とそうとしてくるからか、あるいは皆が自分のことだけで一杯一杯であるからに違いない。経済不成長など失われ続けているとされるこの20年の間にある変化なのかもしれないが、年齢などに関係なくこれからも誰にも頼れず、ひとり倒れる人は増えるだろうと予想される。昔に比べれば、一人で生活しやすくなったのかもしれない。単身者も増え、そのこと自体は自由で豊かなことの象徴として語られることもあるが、絆とか関わりなどと言われている事以上に、人としての関係性が今の生活の中で不可逆的に失われたように思う。5年前に「希望は戦争だ」と言い放ったフリーターがいたが、そういった地ならし的考えを持ってしなければ、格差も埋まらない。だのに、それらの理由を個人の努力とされるならば妬みばかりで協力しあえることもなく、これが自由といわれた、あるいは豊かさといわれた現実なのかと失望するほかない。いったい何が失われたというのか?それとも、そもそもはじめから無かったようなものなのか?

息子とその父の初めから失われているコミュニケーション 父「ネットもいいけども、引きこもっていないでどんなでもいいから仕事をしなさい。」 息子「仕事をしてどうするのだ。」 父「仕事をして、お金を貯めて家から出て行って、好きなことをすればいい。」 息子「好きなことがなければどうするのだ。」 父「結婚して家族をもって、それから考えればいい。」 息子「結婚して家族をもって仕事してたら、暇がなくなって好きなことがあってもする時間がなければどうすればいい。」 父「ある程度働いてお金を稼いだら暇も持てるから、とにかく今は働けばよい。」 息子「働いて暇になっても好きなことが見つからなければどうすればいい」 父「ネットでもして探せばいいさ」 息子「いまそれをしているんだよ!」  お互い結末が分かっていたら、会話をはじめだすこともできない。

人の支え方はたくさんある。  だが、現在の仕組みの中で支援のあり方は画一的である。 人の状態をどこか悪いもの、その人の能力の欠如、自己責任として、何かに当てはめる。ましてや、人がひとり大地を踏みしめて立たなくてはならない時代である。立てないのならば、その人のどこかに改善すべき点、障害などがあり、それを点数化しサービスをする対象として流通させる。そういった支援が必要な場合はあるだろう。ただ、自殺率が急激に伸び始めたとされる今の若者の支援とあっては、この支援の在り方はむしろ彼らの社会的な役割や生きがいをうばうことになっている。

 

私たちは個である前に社会である

障害を作ったのは、現代の社会である。地域をなくし人の関わりを疎遠にし、支えあって生きるような社会を壊した。もちろん、昔のようには戻らないし、それがいいのではない。ただ私たちが経済成長を通してやってきたことは、ただ個であろうとしただけだ。初めからなかったのかもしれないが、昔に代わるような関わりや公のようなものを、私たちが作ったのではない。昔からある関わりの中で起きる問題を解決したのでもなくて、個であることで回避し続けているのである。そして、個であることを初めから強いることはこれから社会に関わろうとする者すべてに障害をあたえる。それで、障害者として障害を持たせ続けられる人もあれば、障害を前にしてそれを内面化し自らを卑下しこの社会での居場所を失う人もある。それは、私たちは個である前に社会であるからだ。

障害が、個にあるのではなく、個であることを強いる社会であるならば、支援するものが向き合うべきは、その社会である。個に向き合いできないことを探しカテゴリーに分けるのではなく、同じ方を向き共にあり続けようとすればいい。私たちの生活はこの20年間失われていたわけではないのだ。

 

2013年6月13日 高橋 淳敏

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