自分で自分が何であるかを決めた頃 – 4
昔話をしたり,周囲の人に聞かせると『まるで辛酸を舐めるような』苦労話になってしまいますが,当の私としてはむしろこの時期はそれほどの苦労とは思っていませんでした.
生活の糧を得るための仕事であり,時には肉体的な苦痛や心細い思いもしましたが,むしろ家族のために嬉々として働いていたような記憶があります.一つにはまだ自我というべきものが形成過程であり,その日その日を精一杯働くことで忘れ去ることもできたのです.
『不就学児童一掃運動』のおかげで中学に入れるようになるのですが,むしろその直前の一年程度が私にとって辛い時代でした.いわゆる自我が芽生えるようになり,自分の将来の生き方をどうしても考え込むようになっていました.同世代の子どもたちは,当然毎日学に行って学んでいます.そのことを考えると,どうしようもない苛立ちが私を包んでしまいます.
『社会的引きこもり』の相談を受けるとき,よくご両親などから『うちの子は昼夜逆転で』などということを訴えられます.中には『昼夜逆転をやめさせるために,子ども部屋に照明器具を増設して昼間眠れないようにしています』などという<あほらしい>報告も聞いたことがあります.
引きこもりのわが子を,まるで電照菊を育てるような方法で矯正しようとするこの親はまったく引きこもりを理解しておられません.昼夜逆転は『昼間することがないから眠り,夜は眠れないから活動的になる』だけのことです.少し補足すれば,私の体験のように,同世代の友達が学んだり,働いたり,正常な活動に参加している時間帯にぶらぶらしていることが辛いのです.辛さを避けるのには眠るのが一番です.昼間眠っている分だけ,夜起きている.それだけのことです.
私は,そんな状態でも昼夜逆転したり,引きこもったりできる身分ではありませんでした.私のこの頃の最後の仕事は,露天で駄菓子屋を営むことでした. この仕事は後に私が中学に入ってからは,我が家の家業になるのですが,その頃は私が働いたお金から「小遣い」として天引きしておいた元手で当時天王寺駅の北東にあった菓子類の卸問屋街で駄菓子を仕入れて売りました.
釜が崎の子どもたちにくじ引きを引かせ,当たりくじが出れば近所の浮浪児仲間が火事場で拾ってきた玩具のピストルがもらえる.そんな仕組みでした.釜が崎の子どもたちは,親が皆昼間働きに出ているので昼食代などを親から与えられており,それを無駄遣いしてしまう子もおり,結構繁盛しました.もちろん,店主の私が仕入れ担当でもあり,12歳当時の私は、釜が崎からせいぜい30分程度の道のりでしたが,毎日,天王寺の菓子問屋まで徒歩で仕入れに通いました.
その道のりには当時,南海電鉄天王寺支線という電車が走っており,今池町という停留所から天王寺までこの電車を利用すれば五分程度で着きます.私が仕入れに出かける時間帯は,普通の小学生たちが登校する時間帯でした.ランドセルを背負った子どもたちは,定期券を見せて改札口を入っていきます.もちろん私には定期券など買うお金がありませんし,通学証明書ももらえない立場ですから,定期券など無縁なものでした.切符を買えば良いのですが,当時電車賃は確か十五円程度.素うどんが一杯十円の時代でした.私は12歳ですから当然子ども料金で良かったのですが,五円十円を商う駄菓子屋の仕入れに電車に乗るという贅沢はできませんでした.
日本一のスラム街『釜が崎』と書いたと思いますが,釜が崎は実は600メートルから1キロ四方程度の狭い地域に過ぎません.しかもその境界は実に明確に,大きな通りや私鉄の高架などで区切られていて,一歩その境界を越えると普通の市民が暮らす町並みにつながっています.これはその頃からほぼ半世紀も経過している今も,ほとんど変化していず、今も維持されています.
別にそこに釜が崎に出入りするためのゲートがあるわけでもなく,警察の検問が敷かれているわけでもありません.ただその頃から,釜が崎の境界には目に見えない『城壁』のようなものがあり,私にとってはその『城壁』は永遠に突破できない高い壁のように,私の意識に覆い被さっているのでした.本当は私にだって,徒歩で簡単に通りぬけられる道でしかなかったのですが,同世代の小学生が持っていた,あの電車の定期券は城壁を通り抜けるための『通行手形』のように見えました.
後に私が大学生になって外国語を学ぶようになり『城壁』という言葉が,ブルジョアジーたちが住む『ブール』や『ブルグ』を意味するのだと言うことを知り,私の言語イメージもそれほど間違っていなかったのだということに気づきました.
2002.9.15
にしじま あきら