NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第331回 母子餓死事件

By , 2013年6月13日 11:59 AM

5月末、大阪市内のマンションで母子の飢え死に死体が発見された。子どもは3歳位で、母親は28歳。子どもの死体のそばに、母親が書いたとみられるメモが発見された。「最後にお腹いっぱい食べさせられなくてごめんね。」とあった。母親が子供を飢え死にさせ、その上で本人も死んでしまったようだ。幼子に十分に食べさせられないで死に追いやった母親の悔しさを思えば、これが福祉国家と言われる国の実情かと驚いてしまう。冷蔵庫もなく、口に入れるものと言えば食塩だけ、電気もとめられており、預金口座の残高は「十数円」だったという。メモの内容からも悲惨な様子はくみ取られるが、今どきこんな悲惨な餓死事件などがありうるのかと唖然とした。インターネットで調べてみると、同種の事件は珍しくはないらしい。たいていはDVによる夫から逃れての結果の孤立死などが多いらしいが、それにしても子どもに食べさせるものもなく飢え死にさせてしまうなど、どこの国の話かと思ってしまうのは、私も実際の世間事情に相当「うとい」らしい。豊かな暮らしはできないまでも「生活保護」や子ども手当など、孤立した母子を飢えさせない程度の社会保障は、最低限、機能していると思っていた。  若い母親が、同棲中の若い男と共謀して幼い子どもを虐待死させてしまう事件などはよく耳にするが、いずれにしても幼児にとって母親の男運というのは生命に関わる鍵になってしまうらしい。続報によると、暴力夫から逃れるために、転居先の住民登録もしていず、そのため行政に相談しても生活保護が受けられなかったとか。生活保護とは、憲法で保障された「健康で文化的な最低限の生活」を保障するために国家や行政に義務付けられた保障制度である。ところが、昨今では芸人の親族などの「生活保護不正受給」などを契機として「生保(ナマポ)叩き」などが流行し「生活保護」を受けること自体が「反社会的」であるかのような風潮が流行している。この為、当然生活保護を受給して生活を維持すべき母子家庭などでも、世間の後ろ指や白い目を気にして、受給を申請しなかったり、行政による厳しい審査などに耐えられないケースも増えているようだ。夫のDVから逃れて隠れ住んでいる場合など、行政の窓口で住民登録をしていないなどの杓子定規な解釈で拒絶されては、救われようがないではないのか。  「生活困窮者の救済」の前提に、暴力的な支配システムへの服従が置かれてしまっては、本当の意味での「弱者救済」にはなっていないのではないか。国家や行政は、それまでの支配的システムで国民を管理している。家や、男性中心の家父長システムがそれであり、 住民登録などの制度的な基盤もそこから離れて存在することはできていない。私は、子ども時代に釜が崎での貧困経験があり、当時の「釜が崎(スラム)問題」のマスコミ報道の裏には常に貧困者への差別感情が潜んでいると感じていた。だから、スラム解消をスローガンにしながらも当時の施策の裏には、市民社会からドロップアウトした者への見せしめ的な報復や悪意が潜んでいることを見落とすことはできなかった。「生活保護」が本当の意味での、憲法が保障する基本的人権に基づくものなら、生活保護バッシングなど起こらないのではないか。どこかで保護受給者に対する「侮り」が見られ、一般市民・国民全体が「ほどこし」をしているような視線が感じられるのである。これは、<体制的><反体制的>であるかによらず、政府に対して批判的なマスコミの論調においてさえ、市民的エスタブリッシュメントの立場から、弱者叩き、保護受給者叩きの姿勢が見受けられるのである。

戦後も70年近くが経過し、定着していたかに見える戦後民主主義とその成果とも思える憲法の改正論議がいとも簡単に政治課題として登場し、しかも改訂の踏み台(議会の3分の2以上)まで踏み越えやすくしようとするなど、民主主義勢力も舐められ尽くしたものだと思われる。アベノミクスなどという、目くらましに踊らされるそんな時代背景があるからこそ、国家的義務であるはずの社会保障まで上からの「ほどこし」のように受け取られ、受給者が肩身の狭い思いをして幼子を死に至らせてしまうのである。今一度、民主的権利とは何かを自覚し、決して権力者や為政者の恣意的自由にはさせないということを自覚しておかないと、引きこもり体験もまた、貧困困窮者の生活保護と同様に、蔑み目線で切り捨てられてしまうのではないか。

私は現代の労働事情を利益至上主義の企業が、労働者の生きがいや喜びを無視する半面、他人や他国の労働者を踏みつけにし、企業や国の利益にのみ奉仕するものだけが生き延びられる、排他的な労働環境だと思っている。そうした過酷で無残な労働環境に志願することが出来ず、社会不信・人間不信に陥った人が引きこもりだと蔑まれている。人は確かに生きて行く上で働くべきである。しかし、このような社会環境の中で自分を殺してまで働くべきではないと思っている。働くべき社会がやって来るまで待てば良い。むしろそのような社会の実現のためにこそ働くべきである。親や、企業や行政が困ろうと、そのような社会にした責任は彼らの中にあるのだから。  私たちは、引きこもりを決して敗者として差別すべきとは見ておらず、忌むべき競争社会の良心的競争忌避者として見ている。それを非国民として蔑もうとするなら、国家や国民を名乗る人々こそ何をしてきたのかと問いなおすべきである。

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