NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第328回 「物 価」

By , 2013年3月15日 4:53 PM

アベノミクスとやらで「円安」傾向が続いている。円安が続けば、輸入食品の値上げが予測され、小麦粉やパンの値上げが予測され、ガソリンや電気料金の値上げも確実なようだ。私たちにとっては大変なことだが、デフレ脱却を公言する自民党政権にとっては望むところらしい。どうやら、自民党にとっては物価を上昇させることが目標のようである。なぜなのか?それは後で考えることにして、「物価」について考えてみる。昔は「物価が安かった」という話だが、私が子どもの頃、母親から当時5円くらいだった駄菓子について「この飴は、昔は1個5厘くらいだった」などと言われたけれど、どんなことを言われたのかピンとこなかった。時代背景や時代感覚がなければ物価比較も意味をなさない。このことを意識しながら話すけれど、はたして理解していただけるだろうか?

 私は昭和19年生まれ。小学校3年生、昭和28年9歳頃に父の仕事が破綻し、夜逃げをする破目に。大阪の新世界ジャンジャン横丁、父と私は二人だけで1軒の串カツ屋へ。「ソースの2度づけ禁止」で有名なあの串カツ居酒屋である。今は串カツは1本100円であるが、その頃の値段は1本4円。4円で格安だが当時は超貧乏生活。母や弟妹には内緒、父と私だけの秘密のぜいたくだった。この串カツは奇妙な食べ物だった。肉は確かに豚肉らしいが、串にこびりつくような細さだった。その代わり、ころもに秘密があるのか揚げるところもがふっくらと膨らんで、ボリューム感がある。それだけにソースを付けるとたっぷりと含んで独特のうまさである。キャベツは無料で、そのキャベツをたくさん食べるためにも、ついソースを二度つけたくなる。そこで「ソースの二度づけ禁止」となる。その頃、釜が崎周辺では、大衆食堂で白メシだった大茶碗一杯で40円だった。小茶碗はその半量で20円、麦飯は大が20円、半量の小は10円、みそ汁は5円だから飯に30円程度プラスすれば1回の食事が賄える。昭和30年になっても素うどん1杯は10円だった。刻みネギと薄いかまぼこが1枚のっているだけだが、当座の空腹は抑えられる。これと比較すれば、1本4円とは言え、串カツはぜいたくな食べ物だった。

 

時代はやや下るが、私が大学に入った昭和39年には、大学生協の食堂でカレーライスは35円。この年京都でのタクシー初乗り運賃は70円。大阪では中型中心で90円だったが京都では小型で70円。この年、私は特別奨学生だったが奨学金は月額8千円。タクシーなどめったに乗らないが、奨学金で100回も乗れたのだからかなりの格安だったのではないか。昭和35年(1960年)から高度経済成長が始まっているが、何故いきなり私が大学に入った昭和39年に話が飛んだかと言うと、実はこの年東京オリンピックが開催され、東京・大阪の新幹線が開通するなど、高度経済成長の収穫が大きく、物価の変動も大きく進んだからである。東京は高速道路や地下鉄の整備が進み、成長に弾みがついた。一方で、公害は極度に進み、成長への批判や急ブレーキもかかった。大学に進学するということはこうした成長の歯車に組み込まれ、加害者の側に加担することも予測されることから70年安保や全共闘運動への道筋が用意されて行った。その1970年は、オリンピックに次ぐ大阪万博の都市。東京に次いで大阪の都市開発も進んだ。釜が崎は建設ブームを支える労働力の供給源として関西一円が空前の好景気に沸いた。万博もオリンピックも大成功と思われたが、宴のあとに何が残ったのか?消費の大ブームの後は、激しいインフレであり、生産するものもない株価と土地の大バブル。株にも土地にも縁のない庶民にとっては貨幣価値の暴落と失業、待っていたのは失われた10年20年への入り口だった。

 

今安倍政権によってデフレ脱却とインフレ目標の設定が言われ、奇しくも再度の東京オリンピックの招致が策略されている。1964年のオリンピックブームの再現を目指しているが、果たしてこれからの東京にあの頃のような投資・再開発の余地は残されているのか?建設と生活破壊による、一層の混乱を招くだけではないのか?デフレーションという経済の現状が良いとは思わないが、ようやく酸素不足のような住みにくい泥水に馴れた我々の生活の中でふと思った光景がある。デフレと言われるだけに、物価の安さはかなりのものである。1串4円の時代やうどん1杯10円の時代も思い出させる。先日も某牛丼専門店に入った。牛丼1杯が300円以下である。少し前ならともかく、68歳になり、身体障害者で運動不足ぎみであるから、1杯の牛丼も食べきれないくらいである。そこに入ってきた若者の集団を見た。彼らは口々に注文をしている。聞くと、マヨネーズめんたいのせ牛丼、とか様々な牛丼のバリエーションである。わたしもメニューを見て驚いた。ただの牛丼ではなく、マヨネーズに何かを混ぜた牛丼というのが数種類もあるのだ。とても私の食欲を刺激するような代物ではないが、若い彼らにとっては大いに 食欲の対象なのだろう。しかも私の注文した300円以下の牛丼と大して変わらず、せいぜい350円程度の値段なのである。

 

近頃の私は食欲も減退し「○○円、××食べ放題」という看板に魅力を感じなくなった。「食べ放題」と言われても、それほど食べきれない。安い食べ放題のものよりも少量でおいしいものが食べたい。少し昔まではそうではなかった。食べ放題というだけで嬉しかった。若い人にとっては今でもそうだろう。だから、この牛丼屋のように安くて腹を満たせる店はありがたいに違いない。彼らはみな20代の中頃。引きこもりの若者の生態を知っている私には、彼らの年頃の若者が例え毎日のように働いていても、大きな収入など得ていないことを知っている。彼らが真面目に働かないからではない。働けないか、働いたとしても、収入は10万円少しなのだ。不満を言うなら、いつでも解雇される。雇い主にとっては、代わりの働き手はいつでも募集できる時代なのだ。だから1食300円前後で外食できるこんな店は貴重なのだ。決して、大金を使える身分でもない私でも今の物価は「安い」と思う。しかし、デフレだからと言っても、インフレになれとは思わない。いまインフレに馴れ、物価が2倍にも3倍にもなれば、若い彼らは大盛りの牛丼を注文できなくなるだろう。インフレーションの時代、物価は常に先行して高く、収入が増えるのははるかに遅れてからであった。

 

これは若者に限ったことではなかったが、今では若者こそが労働者全体の最初に失業し、最後に賃金をあげられる。こんな時代にインフレを望むなど、働く人の敵であり、若者たちの敵であるに違いない。

 

2013.3.8 西嶋彰

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