NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第325回 「ホームレス殺人」

By , 2012年12月13日 3:11 PM

 「ホームレス(homeless)」 日本語では「家なし」私の子ども時代は世界名作小説「家なき子」に夢中になったものである。主人公の孤児「レミ」が愛犬「カピ」と共に母を訪ねて旅をする物語である。当時の私は主人公と同じ10歳以下で、家なしの浮浪児で、物語に共感し、ハラハラとその成り行きに夢中になったものである。今の若い人に「家なき子」と言えば「同情するなら金をくれ」のセリフで有名な日本版のドラマを思い出すそうである。インターネットで検索すると、私の知っている「家なき子」のほかにも似たようなストーリーの別の作品も複数あって、「家なき子」は昔から子ども達に人気の高いテーマだったようである。

 「レミ」は確か、放浪芸人に育てられ、流浪の旅をするが別に野宿をしていたわけではない。「ホームレス」も「ホーム」とは「家庭」であるから、「家庭を持たない人」であって、本来「宿なし」とは違う意味である。私は両親が生きていたから「家庭」はあったが、大阪の貧民街であった釜が崎に流れ着く前に流浪していた時代で、文字通りの「宿なし」「家なし」で「野宿」を繰り返していた。私もその頃はまだ幼く、本当に「貧乏」の意味は理解していなかったから、「野宿」も夏の間などは苦痛ではなく、まるでピクニックのような気分だったが、11月や12月になると寒さが厳しくなり、とても我慢が出来るような状態ではなかった。

 ホームレスは現在、全国で約8000人、大阪市内では2100人程度。数年前には全国で3 万人ほどいて、大阪市内に約8千人で全国最大。全国最大というのは都市の自慢にはならない。激減したからと言って都市の品格が上がるわけではない。ホームレスは社会的な弱者であり、警察や行政が取り締まりを強化しておいたてればすぐに激減する。オリンピック開催などの準備には大規模なホームレス狩りがおこなわれる。取り締まり強化すれば、一時的に収容施設などに収容されるがホームレスがいなくなるわけではない。彼らに本当の家が与えられるわけではないのだ。数年前には公園や橋の下などにブルーシートの小屋がたくさん見られたが彼らは追い立てられて姿を消したが、いなくなったわけではない。

 11月にもなれば、寒さが耐えられなくなると言ったが、この季節彼らは駅や地下街の公共施設をねぐらにする。普段通行するだけでは気がつかないが、地下街ほどありがたいものはない。寒風はさえぎれるし夜露にもあたらない。皮肉なことだが、警備強化すれば追い出されるが、地下街などの高度管理空間はホームレスにとっても居心地の良い空間である。

 だが先月のホームレス殺人事件はその高度管理空間で起こった。地下街ではないが大阪駅のガード下。私にも野宿をした覚えのある空間である。ホームレス襲撃事件は数年前から頻発していた。襲撃する側には、個人的な恨みなどの動機はないが数人の徒党を組んで殴るけるなどの暴行を加え、逃走するらしい。襲われるのはたいてい60代の弱々しいホームレスで反撃して追って来る心配もない人を選ぶ。今回も5~6人の集団で暴行を加え、死に至らしめたらしい。反撃する力もないほどの弱々しい人を選ぶのだから、集団である必要もないと思うのに、彼らはいつも数名の集団。1人なら許せるという訳ではないが、集団の犯行というのは更に卑劣で許せない。ホームレスが社会的な迷惑だと思っているのなら、堂々と1人で反抗すれば良い。学校におけるいじめ同様に、徒党を組んで弱者を攻撃する彼らは卑劣であると同時に実は意気地なしなのだ。

 大阪にはキタとミナミにターミナルがある。ホームレス(野宿者)にとって、60年前は圧倒的に人気があったのはキタである。何故だかわかるだろうか。南には南海難波駅と地下街があり北には国鉄(JR)大阪駅があった。南海電車は私鉄で12時すぎには最終電車が発車し駅は閉鎖される。ところが大阪駅では、当時東京駅を夕方から夜に発車した九州行の夜行列車が午前2時~3時に大阪駅に停車する。だから3時過ぎはまだ大阪駅の営業時間である。午前4時になって始発の午前5時前まで約1時間駅は閉鎖される。野宿者にとって駅構内から排除される約1時間、どこかで時間をつぶせばほぼ1日中暖房の効いた空間で過せるのである。

 ホームレスを社会的弱者と定義したが、大阪市はもう一つの社会的弱者の数が多いのでも有名である。それは生活保護費受給者の数である。生活保護の不正受給が話題になったが、不正受給どころか生活保護をもらうこと自体を敵視する人が多い。消費税の値上げが税と社会保障の一体改革などとして、生活保護のためなどされたりされる。生活保護が自分たちの税金を悪用しているかのような敵視の仕方である。高福祉・高負担は北欧型の社会福祉国では常識だが、日本では低福祉が国民の要求であるかのようで寒々しさを感じる。

 引きこもり相談の中で、当事者が家での閉じこもり生活に飽き飽きして、「外に出たい」と訴えている例も少なくない。私たちはそれに賛成し、親も「出て行く」ことに賛成している。なぜそれが実現しないのか聞いてみると、「仕事もしていないし、今追い出したりしたらホームレスになってしまう」。親がそう心配するだけでなく、当事者もホームレスになるのが心配で、家出に踏み切れないらしい。私は「家出のススメ」を勧めているし、昔から「家出」とはホームレスになることであった。もちろん「家出」がホームレスにならないためにはすぐに働くことが必要になる。そんなことは自明であるのだが、働くのが嫌である以上に、自分がそんな境遇(ホームレス)になるとは思いもつかないのである。

 ホームレスが現在の生活の延長線上にありうる生活形態だとは想像できない、ある意味、自分たちとは異人種、言い換えれば同じ種類の人間とは見ていないのである。古い話で恐縮であるが「鬼畜米英」と言って敵視したり、ユダヤ人を大虐殺したように良心の呵責を感じない地ならしがされているのだ。寒さに震える老人を多数の力を借りて踏んだり蹴ったりして死に至らしめる、ホームレスを毛嫌いするという時点で彼らは人間性を喪失してしまっているのではないか。引きこもりを恐怖することや、ホームレスを怖がることはよいけれど、生きて行く上での勇気はどんなときにも必要で、その勇気からしり込みすることが、自分の生き方を限定し、他人の生きざまを遠ざけてしまう。遠ざけるだけなら良いけれど、他人が生きる力や権利まで見えなくなり、無残にもそれをゴミのように蹴散らしてしまうのではないか。

2012.12.13 西嶋彰

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