NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第324回 「上昇志向」

By , 2012年11月13日 1:33 PM

 奇妙なことを言うようだが、私たち(ニュースタート事務局関西)を訪ねて来られる方がいつまでも絶えないのは不思議でならない。通常、「引きこもりを考える会(通称「例会)」を初めて訪ねて来られる方のための場として想定している。14年前の1998年頃は引きこもり問題が世間の話題となり、毎回50名以上の参加者があった。その頃は、私たちの活動が全国紙にも紹介され、TV番組にも取り上げられ、引きこもり問題で悩む親たちが毎月多数訪ねて来られるのも当然であった。数年が経過し、私たちの活動も定着し、相変わらずクチコミで訪ねてくる方は衰えず、それでも毎回10数名程度の参加者であった。私たちの気持ちとしては1人でも、お悩みの方がおられる以上「例会」は続けて行くという気持ちであるが、近年はマスコミに取り上げられることもなく、ホームページは開設しているものの、一般の方に向けての広報活動は行っておらず、引きこもり問題の相談機関としての社会的アピールは行っていない。「例会」の開催はほぼ「社会的義務」だと思って続けているが、「例会」の参加者がなくなれば、その社会的役割も「終了」したものとして活動を終了しようと思っている。ところが近年になっても、初参加者は少なくはなっているが決して参加者がゼロになることはない。引きこもり問題が完全に解決されたわけでない以上、参加者が途切れないのは仕方がないとして、どこから「情報」を仕入れて来られるのだろうか。引きこもり問題の「支援機関」は現在も全国に数百か所くらいはあるらしく、引きこもり問題でお悩みの方はインターネットで検索して、それらの支援機関・相談機関にアプローチをされるようである。

 「相談」に来られた方に対しては、どこで「ニュースタート事務局関西」の名をお知りになりましたか?とお尋ねする。私たちの場合、①千葉のニュースタートで関西にも事務局があることを知り、②自治体の保健所などで紹介され、③支援機関のリストで知った、④知人に紹介され、などのほか、⑤インターネットでホームページを知り、などが上位に並ぶ。ホームページは「引きこもり・ニート・不登校」などの「キーワード」で検索する以外にも、「訪問活動・レンタル活動・鍋の会」など私たちの活動の内容を示すキーワードでも検索できるらしい。それでも、数百もある支援機関の中から、私たちのニュースタート事務局関西が「なぜ選ばれたのか?」の理由が分からないので質問すると「ホームページに書かれている内容に共感したから」というお答えが多かった。

 ホームページに「共感」するほどの内容が書かれているとは思えないが、他の支援機関のホームページをのぞいてみると、全くと言ってよいほど「主張」らしきものはない。ニュースタート事務局関西はむしろ「イデオロギー」に溢れていると言ってよいかもしれない。その中の一つが標題に上げた反「上昇志向」である。大方において「共感」するが「上昇志向がいけないというご意見には納得できない」という意見の持ち主が現れたのである。「上昇志向」に「反対」とか「賛成」とかというような活動方針をあげているわけではないが、この「直言曲言」でも何度か「上昇志向」にも触れたことがあるし、そこにそういうことが触れてある以上、毎号発行する「通信」にも似たような論調があったのかもしれない。私(元代表)が、雑感的文章の中で「上昇志向反対」と述べたところでニュースタート事務局関西の活動指標というほどでもないのに、これに噛みついて来るとは、この方も十分にイデオロギー的な方かもしれないので、少し反論することにした。

 私たちが、活動を開始してからの経験でいえば、引きこもりの青年の大多数は、「人間関係が苦手だ」という。これこそが引きこもりの実態であり、原因でもあるのだ。「人間関係」などという抽象的な概念が何故に心理的な苦手感覚に成長してしまうのだろう。生まれたては父と母という生物的なつながりが存在するにすぎない。やがて公園デビューを経て、保育園や幼稚園、そして小学校へ。友だちとのつながりが人間関係を形成していく。この頃は、ほとんどが遊び友達に過ぎない。ここから先は、いわゆる学校の病理が芽生えてくるので一概には言えなくなる。早い子の場合、いじめ、いじめられる環境に遭遇する場合もある。中学校へ入ると、学校生活は遊びよりも勉強の比重が高くなる。教師も露骨に「できる子」「できない子」を差別するようになり、親も将来の高校進学、大学進学を目指して、他の子との間、ことに成績の上下関係を意識するようになる。いわゆる「競争関係」が人間関係の重要な部分になってしまう。「上昇志向」というのはこの時期、常に子どもに発破をかけ、勉強しなさい、早くやりなさいのような所謂お尻たたきが常とう文句になってしまうことである。それまで、友だちであった同級生、同世代の子も、競争相手になってしまい友情をはぐくむどころか敵対的な関係になってしまう。人間関係に悩み始めるのもこのころであり、親や先生の扱いによっては乏しい人間関係が苦手な敵対関係になってしまい、それが対人恐怖になり、すべての人間に対する「人間不信」にまで発展する。私たちの観察によれば、小学校などの子ども時代に芽生えた「人間不信」は比較的軽度で済む場合があるが、高校時代まで持ち越すとこれが不登校や中退に繋がり成人の引きこもりにまで持ち越すことが多い。

 私たちが「上昇志向」に否定的なのは以上のような理由だが、子どもたちを上昇志向に追いやるのはもちろん親である場合が多い。ほとんどの親は「勉強しなさい」と子どもをしかることが「悪い」ことであるとは夢々思っていないので「なぜ上昇志向が悪いのか」となるのである。人間の生き様としての「上昇志向」が悪いものであるはずがないと思い込んでいる。たとえば良く似た言葉に「向上心」のようなものがある。20世紀的価値観と21世紀の価値観を持ち出すのはいささか卑怯かもしれないが、この時代に相変わらずの上昇志向を金言視しているのはかなりの時代錯誤である。但し、「上昇志向」の一切を否定しているわけではない。過度な学歴信仰や受験戦争を信じ込んで、青春期に大切な人間関係を疎んじるような「過度な上昇志向」に警告を発しているだけである。人間として最低限必要な「向上心」まで否定するはずがない。上を目指すことそのものを否定はしないけれど、「バベルの塔」や太陽を目指して上昇しようとして焼け落ちたイカロスの翼のような寓話がいくつも伝えられているではないか。

2012.11.13 西嶋彰

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