直言曲言 第323回 「反原発」
原子力発電の賛否についての論争がかまびすしい。そんな論争に介入するつもりはなかった。将来の原発をゼロにするという世論調査の結果、賛成派の反撃が声高になり、どちらかと言えば「穏健派」と見られてきた人からも「賛成」の論調が目立ってきた。もともと、原発推進派というのは頑迷固陋の保守的人士でいくら論理的に反証しても納得しない。私が看過できないと思ったのは賛成派にもいろんな意見が見られ、反対派の主張にも一見理解を示すようにソフトに振舞いながら結局賛成の立場を押し付けようとする意見が多いことである。原発事故についてはその被害を含めて一応の認識はあるらしい。ところが彼らにとっては、事故の被害は「軽微であり」、原発廃止によりもたらされるものが巨大だと思っているらしい。「軽微である」という主張は事故による直接的な死者がないということらしい。あれだけの爆発事故があり放射能漏れは広範囲に及び、避難区域が設定され、さらにそれが時間の経過により解除されるどころか、帰還できない封鎖地区にもなっている。いわば人々が住んでいた地域そのものがゴーストタウンになり、死滅してしまっているのである。むごたらしい屍そのものを見なければ、被害を認めようとしない。それこそ、放射能が世界を覆い尽くしても、即死者やがん死者の屍がうず高く積み上げられなければ、原発をやめようとしないのだろうか。
原子力発電については今回のような事故が発生する前から、大きな問題点がある。廃棄物の問題である。原子力発電の燃料(ウラン)は紙や木材のように燃えてなくなり、後に灰だけが残るというものではない。ウランが燃焼した後には、プルトニウムのような高濃度放射性物質や半減期が人間の生命の数倍もある物質が残るのである。これらの核廃棄物は地上に廃棄するわけにはいかない。ガラス固化という特殊な加工をしたり、地下数十メートルに埋める「地層処分」をしなければならない。今回の爆発によって汚染された表土でさえ、全国で処分地の引き受け自治体が見つからないというのにどうするつもりだろう。
原子力発電を進める上で核廃棄物の処理の問題は重大で困難な問題であった。高速増殖炉もんじゅの問題は原子力発電をめぐる問題を一挙に解決したかに見えた。高速増殖炉は核燃料サイクルと言われるように、原発の廃棄物であるウランからプルトニウムを取り出しこのプルトニウムを分裂・増殖させもう一度原子力発電に用いようとするものである。これが成功すれば、日本のような資源小国でも核燃料は無限再利用出来ることになり、資源問題が解決されるうえ、再利用することにより、核廃棄物のことも心配する必要がなくなるというはずのものであった。プルト二ウムはウランに比べて核分裂速度が速く危険だと言われている。また冷却材として使用される液体ナトリウムも、水や空気に触れると爆発しやすく危険である。実際に福井県のもんじゅにおけるナトリウム漏れ事故により開発が中断されており、世界の原発大国でも、核燃料サイクルは中断、断念されているのが現状だ。核燃料廃棄物の処理方法としても好都合と思われた高速増殖炉がこのように断念せざるを得ない状況に追い込まれて、核燃料廃棄物はどうするのだろうか。リサイクルできないとすれば、こんな危険な廃棄物を生産し続けてどうしようというのだろう。
原発事故の危険や廃棄物処理の危険にもかかわらず、原子力発電の再開を主張する人たちの志向はどのようになっているのだろうか。今回の事故や廃棄物処理の問題は、確かに福島県や青森県に限られた問題かもしれない。一方、今後原子力発電が使えないとすれば、その影響は日本人の一人一人に影響が及ぶ問題かもしれない。自分自身がいかに影響が及ぶかを考えれば、危険性には目をつむって、恩恵だけを主張することになるのだろうか。原発再開を主張する人の多くは、経済生活への影響力を主張する。当初は、原発がなければ、電力を使った生活がすべてなくなるかのような脅しが通用していた。しかし2012年に節電についての脅迫的な脅し(原子力緊急事態宣言)が行われ、再稼働した大飯3号機・4号機を除いて54基ある原発はすべて停止中であるが、日常生活への大した影響もなく病院その他への影響が心配された計画停電も行われず、日本中のほとんどの原発が停止していてもほとんど影響がないことが判明した。今でも、原発再開についてうるさいのは保守派政治家と企業経営者と経団連会長くらいです。企業経営者でもない一般のしかも良識派めいた人がなぜ「原発再開」なのだろうか。
それは、多くの人が「成長神話」に侵されているからである。確かに日本の1960年代以降の経済成長は、原子力発電を含む電力と工業生産に支えられてきた。原子力発電がなければ経済が成長できない、経済が成長しなくなれば豊かな成長を維持できないと思い込んでいるのである。日本の実用的な原発は1970年に美浜1号機ができたのが初めてである。既に日本経済は高度経済成長を続けて10年が経ち、新幹線も走り、電力の多消費時代を迎えていた。大阪万博が開催され、経済も文化も爛熟の状況を迎えていた。電燈もないような未開の文明時代に戻るような脅しは全く根拠がないのである。
それでも、経済成長ゼロを恐れるのは何故だろう。今確かに高度経済成長や「ジャパンアズナンバーワン」と言われた時代は去り、中国やインドやがてはアフリカ諸国などの成長時代が来るだろう。なぜ日本だけが永続的で永遠の成長を続けなければならないのだろう。平和で安定的な経済が続くのはよい。原子力緊急事態なのは、永遠の繁栄を目論んでいた産業界だけなのである。世界的な歴史を見ても、ローマ帝国は世界支配を目指したけれど、それゆえにやがて滅亡することになった。永遠の繁栄を目指すということは、拡大を追求し続けることになる。経済成長の果実を独り占めにしてきた企業や経済界がそれを望むことは理解できる。資本家でもない市井の人が、原発による経済成長を望むのは何故だろう。平和ボケ、成長ボケと言われても仕方がないだろう。保守派や政治権力を持つ人々が、教育の実権を持っている。人々を成長志向に向けて教育してきた。引きこもり問題の根源には就職問題と永続的な上昇志向がある。この上昇志向が保守派でも資本家でもない人に「原発推進」などと叫ばせるのである。
捨て場のない核のゴミをガラス固化して大量生産し続けるのであれば、「原発真理教」でも作って各家庭の仏壇にでも神棚にでも、一つずつ保管して毎日拝んでもらってはいかがだろうか。あいにく、私は無宗教で我が家には仏壇も神棚もない。原発ガラス固化物の配給はご免こうむる。
2012.10.16 西嶋彰