NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第301回 「存 在」

By , 2010年12月13日 4:53 PM

奴隷のような生活を強いられ、そこから抜け出せない日常を送っている人がいるとしたら、「奴隷解放」「差別反対」と言うのが彼の信条になるのは当然であろう。「存在は意識を規定する」と言うのは「唯物論的認識論」の基礎である。私自身、大阪の釜ヶ崎に育ち小学校にも行けない浮浪児生活を送っていたので長く「貧困は敵だ」と考えていて、「社会主義革命」が必要だと考えていた。大学に進学し、その後長年にわたり「社長業」もやっていたので、「革命」については自分自身の存在から規定される任務と言うよりは理念的に思い描いて、思い続けている「古い記憶」と言う所だ。正直に言って「革命の大義」は揺るがないのだが、暴力の問題、流血、生命の問題を乗り越えて革命を断行する決意は揺らいでいる。幸いなことに「革命」は容易になりがたく、自分自身の生命の方が「時間切れ」になりそうで却って『ホッとしている』ところである。ただ、幼時から少年時代に身につけたつもりの哲学や認識の習慣は、容易に覆るわけではなく『唯物論的認識論』も特に意識するまでもなく、当然のような思考様式をたどっている。

ところで「引きこもり」は存在様式の一つの形であるけれど、同時にそれは思考様式、つまり「意識」のありようの一つであるともいえる。だとするならば、その意識のありようつまり「引きこもり」意識は何らかの「存在」様式に規定されていることになる。別にことさらに難しいことを言おうとしているわけではないが、唯物論的思考に慣れ親しんでいる私としては、ある種の結果をもたらすものとして何らかの原因があってしかるべきだと言うのが「科学的」因果律だと信じている。私たちの引きこもり支援活動は、医療活動などではなく、単なる社会的支援活動だと思っているが、少なくともそのケースワークが1,000例を超え、その100%近くに対人恐怖や人間不信の症例が見られる以上、どこかに病理的な原因があると考えるのは当然であろう。しかも、それらは個別的・偶発的な原因などではなく、現代の若者が抱える共通の因子が存在すると考えるのは当然である。

13年前に我らがニュースタート事務局理事長二神能基は、ある社会的問題提起をした。既に一部では、社会的適応不全の若者たちがいることは知られていたが、二神は彼らに親たちから切り離した集団生活をさせることにより『症状が改善』することを発見していた。二神は永年の教育的な実践の経験と直感によりそのことを発見していたのだが、二神自身民間の一教育事業者に過ぎず、学術的にその構造を説明すべき術を持たなかった。おそらく、その引きこもり当事者たちの親は既に何年も前からそうした一群の症状が存在することは知っていたが、それを誰に相談したら症状を改善してくれるのか、少なくとも説明してくれるのか分からなかった。高度な文明が蔓延し、医学的にも様々な病理と言うものが解明されている中で明確な医学的解明のされていない症状を探求すべく「心療内科」などの診療科目が開設されたのだろうが、引きこもりの若者たちに適切な治療方針を示した「心療内科」医は一人もいなかった。内科的には全く「健康」としか診断しえず、「あとは精神科医の診断」を勧めることがせいぜいであったろう。その精神科医にしてからがほとんど見当違いの診断で誤診による薬漬け医療か診断放棄に等しい「統合失調症」や「うつ病」「らしい」「かもしれない」診断で放り出す始末であった。13年前、既にこうした医療の無力さや責任放棄にさらされていた引きこもりの親軍は、二神や彼のサポートをしようとした西嶋らの関西スタッフ、さらに彼らの主張に飛びついたジャーナリストたちの手を借りて、この「難病」の解明への足掛かりを得た。本来なら、二神ら民間有志のこうした主張が人々に知られるにはもう少し時間がかかったはずであった。

ところで「存在が意識を規定する」との冒頭の主張はどんな関わりを持つのか。引きこもりの対人恐怖や人間不信は、受験戦争やその後の就職戦争などの過度な競争社会の産物だと言うのが私の仮説であり、引きこもり経験者の述懐や13年間の経過観察の結果、それはほぼ裏付けられていると言える。「競争社会」が若者の対人感性に蓋をしてしまい、対人接触を拒否しているのは単なる現実であるが、それだけではこの20年間にこれだけ「引きこもり」が増加したことの説明にはならない。私は現在66歳であるが、私たちが青年期である頃から受験競争は厳しかったし、金銭的な幸福を追求する戦いはシビアーであったと言える。そうした競争社会に身を置いていたのが人間不信や引きこもりの原因だとするなら、引きこもりは今に始まったことではないはずだ。

今の「引きこもり」が目立つようになったのは、バブル崩壊の1990年以降である。私たちや少し年下の団塊の世代たちは、今の引きこもりの若者たちの親世代である。彼らは未だ高度経済成長の名残が残る1970年代に青春期を送った。競争社会の真っただ中に身を投じながら、幸いにもその残渣の中を泳ぎ切り、マイホームを獲得し、結婚し、子どもをもうけた。その間にも、石油危機やバブル崩壊、冷戦の終結など時代のパラダイムが大きく転換してしまうような危機を迎えた。しかし、彼ら親の世代はついぞ決定的な危機を経験しないで済んだ。厳しい競争社会に身を置くことが引きこもりにつながるのであるなら、親たちも早くからそうなっていたはずである。ところが、親たちはそうならずに済んでいて、経験的に競争社会を勝ち抜くことによって「幸福」に到達したと思っている。だから子どもたちに無自覚的に競争を強いてしまっている。

「存在が意識を規定する」と言うのは今も真実であろう。しかし「時代が変わっている」のである。1970年以前のように「野放図」な競争が受け入れられるような時代ではなくなっているのだ。大学進学率も局限と思えるほどに伸び、もはやその卒業生をすべて産業予備軍として迎え入れるほどの余力を持たなくなっている。しかもそのことは既に20年も前から顕在化し、「就職冬の時代」や「就職氷河期」として喧伝されているではないか。世界的不況が資本主義陣営を襲い、先進各国が雇用不安にあえいでいるではないか。そんな中でわが子だけが、競争を潜り抜け、幸せを獲得出来ると思うのは余りにも盲目的で利己的な愛ではないか。先進資本主義国の末路が、このように略奪されてきた国々の労働力によって仕事を奪われて失業地獄に落ちていくとは。そのことの不幸を嘆くよりも、そのことさえ理解できずに、永遠の王国を築いたかのように王権の世襲を願う愚かさよ。存在が意識を規定するけれど、その存在は時の流れにより、移ろいで行くのだ。そんな単純なことに気づかない親と言うものの愚かさよ。

2010.12.13.

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