NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第290回 「縺 れ」

By , 2010年2月26日 4:20 PM

「寛快」医学用語であるが一般には聞きなれない言葉である。一般的には「治癒」とか「全快」と言えば良さそうなものである。つまり「治った」ということである。ただし、完全に治ったわけではなく「再発」する可能性もある、というニュアンスらしい。「病気」というものは往々にしてそういうものらしい。この言葉を使うと患者に却って不安を抱かせてしまうので使用は抑制されているらしい。だから、私たちは普通の病気で入院したり通院した後「もう大丈夫、もう病院に来なくてもよろしい」と言う時に「寛快」などという言葉は聞かない。事実、私も引きこもりの支援活動をして精神病院への入院・通院歴のある人とお付き合いをしたり、精神科医さんから教えを請うようになってこの言葉を初めて知った。

医学書などを見ても精神科では「寛快」を使い、他の診療科では使わないなどとは書いていない。慣例的に精神科では良く使うようだ。確かに精神科では発病の診断そのものがあいまいだ。だとすれば治癒もまた曖昧で、寛快などと言う曖昧表現を使わざるを得ないのかもしれない。かと言え、私は「寛快」という表現が好きだ。「好き嫌い」の問題ではないだろうが、なんとなく理解ができる。私は引きこもりを精神病と認めているわけではないが、統合失調症と言う精神病の名前には精神活動が真冬の湖水のように凍結したようなイメージを持っている。それが寛快するというのは凍結した氷が溶け出して、活力を取り戻したようなイメージがある。近畿地方や首都圏のように氷点下ギリギリの気温で氷結したのではない。北海道の内陸部のような零下何十度の凍(しば)れる世界で、凍りついてしまったような精神が寛快という言葉で緩やかにほどけていくというイメージである。

寛快が「ほどける」イメージなら、反対は「縺(もつ)れる」イメージである。これは精神分裂症でなくても引きこもりにもある。初期の引きこもりは社会参加への拒否感から、対話を拒むようになる。外出を嫌がったり対話を拒否するが、その他の精神的症状は目立たない。同居する家族は対話を取り戻そうとしてあの手この手で話しかける。本人はこれからいよいよ本格的な社会参加を目の前にして、遭遇する現実に驚いている。何をするにも競争関係が横たわっている。友だちと一緒に学校へ行こうと思っても優劣関係を順位づけしなければ済まない。そしてその学校へ行くかどうかが、さらに上の学校、どんな大学へ行くのか、どんな会社に就職するのか、そのことがどれだけお金を稼げるかに関わっているという。他人よりどれだけ多くお金を稼げるかが幸せになれるかどうかに関わっているという。関わっているという程度ではない。今ここで、友達を蹴落として良い中学、良い高校に行くかが、幸せな人生を決定づけるのだという。信じられないことに、友達を裏切って一人でも多くの友だちを蹴落とさなければ、幸せへの道が開かれないのだという。一時的なことならともかく、一生こんな競争社会を生きていかなければならないなんて「絶望的」なことだ。引きこもり青年たちの述懐を聞いているとこんな声が聞こえて来た。「絶望的」な心境だが、別に絶望しているわけではない。一時的に希望を見失い、絶望しかけているだけのことだ。しかし親たちは、子どもたちのこの状況を決して許してくれない。最初は「不登校」として子どもたちの態度は表れる。学校に「行きたくない」というだけのことなのだが、親にとっては「学校に行かない」ということは全人生を放棄したことのように思えるらしい。子どもにとっては「学校」とは競争の本家本元に思える。先生たちは競争を押し付けてくるし、自分が疑問に思える競争を先生たちは、何の疑問もなく受け入れている。多くの子どもたちは「競争」を当たり前のように受け入れていて、毎日が「勝ち負け」のゲーム用なのだから「勝ち負け」に疑問を抱いてしまった子は学校に行くのが嫌になってしまうのは当たり前である。すると親は「学校に行かないと皆との競争に負けてしまうよ」と叱るのだから、行く気にならないのは当然だ。

親の方はこの社会を100%肯定し、そのことを前提にして子どもを教育しようとしている。どちらが正しいかの問題ではなく、親の意見が子どもに通じないのは当然だろう。子どもの引きこもりに悩む親たちは私たちのような相談機関に相談にみえる。相談者とはそんなものなのだろうが、私たちを親の味方だろうと思って子どもの現状を悪く言う。子どもが口をきいてくれない。家庭内暴力をふるう。高校を辞めて10年になるのに働こうとしない、等々。私たちは親の言うことを100%信じるわけでもないが、親の眼にはそのように映っているのだろうと受け止めながら聞く。私たちのもとを訪れる人のおよそ半分は精神科や心療クリニックなどの受診歴を持つ。20%近くは精神病院への入院歴を持っている。精神病院に入院していたから、ましてや受診歴があるからと言って、ただちに精神病を疑ったりしない。しかし、複数の精神科医に「統合失調症」と診断されたり、親から誇張された症状を訴えられたりすると、私たちも少し身構えることがある。その面談時点では、親としか面談しておらず、本人とは未知の間柄である。いくつもの精神病院を知っていて、複数の精神科医とお友達である私は、統合失調症がどんな病状であるかは知っている。統合失調症がいつも錯乱状態にあるとは思わないが、若者の共同生活寮を営み、そこで自由な共同生活を進めているニュースタート事務局であるが、統合失調症の若者をすぐさまそこで生活させる勇気はない。親たちの中には「厄介払い」のように共同生活寮で我が子を預かって欲しいという人もいる。当初は当事者も共同生活寮などというものを信用してはいない。体験入寮を通じて、少し慣れ始めた当事者と顔を合わせてみると、礼儀正しく思いやりのある子で冗談さえ通じるのだ。コミュニケーション不足で価値観や判断力に「異常」があるのは親の方ではないのか?今では相談者の8割は子どもに異常はなく殆どの親にその原因があると確信している。

子どもに一切の問題がないと言っているのではない。親や社会から受けるストレスにより、神経症的な神経の縺れが生じている。縺れはさらなる加圧により、捩れ(よじれ)や拗れ(こじれ)になっていく。単なる一時的な神経症がよじれこじれにより、こんがらがって元に戻りにくくなった状態を精神科医は「精神病」と言うのだろう。このもつれから「よじれ」や「こじれ」になっていく過程は不幸にも私たちでも現認することがある。神経症による縺れが寛快しかけ、糸がほどけかけているのに、親が頑固に自分の価値観を押し付けもう二度とほどけないようながんじがらめになってしまうのである。

2010.02.26.

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