NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第263回 「肉 食」

By , 2009年5月18日 2:34 PM

「草食系男子」という言葉がはやっているらしい。先日鍋の会で「僕は草食系男子です」という男の子がいたので観察していると野菜だけでなく肉も食べていた。草食系というから「ベジタリアン」なのかなと思っていたら、そうではないらしい。googleで検索してみると「協調性はあり、家庭的で優しいが、恋愛には積極的でない男性」と出てきた。要するに「与えられているものに満足しており、何でもがつがつと欲しがるタイプではないらしい。肉食獣の野獣に比べてのんびりとしている草食動物のイメージらしい。性的にも淡白であるというのが特徴だ。そういえばひところ環境ホルモンの話が盛んになって環境ホルモンのせいで生殖機能に異常を生じたり動物にメス化傾向が現れるという話があったが草食系男子というのはそれほど科学的な話でもないらしい。いずれにしても「積極的でない」男子はかわいい女の子が近くにいても飛びかかったりせずに大人しくしているらしいから、近頃の晩婚化傾向や非婚化傾向に関係があるらしい。男子の草食化傾向は困ったことだが、代わりに肉食女子というのも現われているそうだからそのうち性的犯罪にも男性被害者が増えてくるのかもしれない。女の子の方が男の方に飛びかかっていかなければならないのだから肉食女子も大変だ。

昼夜逆転と言えば引きこもりの専売特許のように思われているが3年前脳こうそくを患った私も立派な昼夜逆転である。深夜に尿意を催して目覚めるのだが、それから寝つけず深夜放送のテレビスイッチをつける。深夜にはテレビショッピングとか古い洋画などお金のかからない番組をやっていることが多いが、自然探訪のようなドキュメンタリーもよく放送されている。野生動物の生態ルポなどもある。先日もジャングルの猛禽類の生態をやっていたので興味深く見ていた。

大きなワシの一種で、オスの親鳥は狩りをしてきて雛にえさを与えて生育するのだが、数週間すると餌を与え無くなり、雛の巣離れを待つ。雛はまだ十分に飛んだりできず、狩りもできないのだが、それでも親鳥は巣の近くに待機していて子どもを見守っているらしい。こうした野生動物の生態を見るとどうして人間は野生動物から学ぶことが出来なくなったのかなと思う。人間は生まれたばかりの時は野生動物と同様に赤ん坊を溺愛する。しかしそのあと、大人になっていく段階で、このワシのように子どもを見守るということができないようだ。

ワシは猛禽であり肉食である。捕食するのは猿やアリクイなどの中型の動物らしい。猿などにしても命を守るのに必死である。いくら猛禽類とは言え、巣立ったばかりの子どもに狩りをするのは難しい。そこで親は物陰から子どもが生きていけるかを見守るらしい。キリンや象などの草食動物なら生れてすぐでも草を食むことくらいできるかもしれない。シマ馬やフラミンゴのような弱小動物や野鳥なら集団で生活していて子育てもまた集団でおこなわれる。

人間は肉食でも草食でもなく雑食動物である。肉食もするが現代では野生動物を狩りして食べることは少ない。通常は牧畜業者などが生育し屠刹し精肉加工されたものを食べる。牧畜であれ、農耕であれ、直接食糧生産に携わる人は少なく、たいていの人はスーパーマーケットや食料品店で買って来て食品にする。今でも狩猟により生計を立てているのはジビエ料理などのあるヨーロッパでは知らないが魚食日本では漁民くらいのものか。現代日本の食生活はこんなものだから、子どもたちは自立するためとは言っても狩りをおぼえる必要はない。狩りを教える必要はないけれど獲物や食糧を得るためにお金を稼げるようにしようとする。狩りができるということは野生の肉食獣にとっては基本的な生きる技術である。現代ではお金を稼ぐことが基本的な生きる技術になっている。親はその技術を身につけさせるために子どもを教育する。しかしお金を稼ぐためと言っても子どものころから直接そのための技術を教えることなどできない。結局お金を稼ぐ技術とは他人に先駆けたり、他人のお金を奪い取ったり、つまり競争に勝つこと。他人と競争して、他人より多く稼ぐことを学ぶことになる。野生動物にとって狩りをする技術が現代日本では競争社会を生き抜くことなのか。私立の中高一貫など中学受験からの子や小学校や幼稚園などからお受験をする子はこのころから野獣の子のように競争の世界に追い込まれるのである。

競争社会というのはいつの世にも一般的であるが、誰もがこんなに早くから競争社会に追い込まれるわけではない。他の子はあどけなく遊んでいる頃から競争的な勉強に明け暮れていると少しものを考える子ほど疑問に思うことがあるようだ。親の方はそのことを少しも不思議に思っていないものだから、ギャップが生じてくる。反抗期になる中学くらいから引きこもりが多発して来るのもこのためだ。「ものを考える子ほど」と書いたが、引きこもりになる子はむしろ「聡明」な子だというのもそういう理由からだ。

ワシの子は狩りをするようになるまで親に見守られるが、空腹に追い詰められて狩りをおぼえるのだから「自己嫌悪」に陥る余地はないだろう。一方人間の子は「豊かだけれど出口のない競争社会」の中で競争に追いやられる。飢餓体験もないのに友人を追い落とすことを教え込まれるのだから、途中で自己嫌悪に陥って当然である。引きこもりの中でもこういう自覚的な自己嫌悪組が「草食系男子」を自称したりする。だから私は実は草食系男子というのが好きである。

私は草食老人である。草食「系」ではない。文字通り草食である。かつてライオンのように肉食もしたが今は歯が立たない。今はもう野ネズミが鼻の上でダンスを踊っていても前脚で押さえつけることもできない。肉食に関心はあるが、誰かが捕まえてミンチにしてくれても飲みこむことができないだろう。草食老人だけの集まりは平和で良い。別の老人が若いころの自慢話をしていても咎める気にもならない。「若いなあ」と思うわけではない。若いころの肉食に憧れていて老人らしい草食になじめない姿を哀れに感じるだけだ。私には2歳9カ月になる女の孫がいる。今この孫の前に肉食野獣が飛び出したら、車いすのままでも突進して相手を追い払うだろう。でも15年たって、孫の周りに草食系男子しかいなかったら哀しい。草食老人を自称する私だがまだまだ肉食の血を忘れたわけではない。例会などで反論されたりすると肉食の血がよみがえってくるのか猛烈に反撃してしまう。論争するのは私の職業的習慣であり、野生の復活であるようだ。

2009.05.18.

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