NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第242回 「NSP」

By , 2008年10月11日 4:07 PM

NSPは「あぶない仕事」である。「あぶない」と言っても「危険な」という意味ではない。その前にNSPとは何かを説明しなければ何のことやらわからないだろう。NSP (New Start Partner)はニュースタート事務局が引きこもりの当事者のもとに派遣する「訪問相談員」のことである。ニュースタート事務局の千葉本部では「レンタルお姉さん」と呼んでおり、一般にはこの方が通りが良い。新聞・テレビで何度も報道された。テレビドラマにもなった。漫画にもなったそうだ。どちらが誤用だか知らないが風俗店の名称にもなったそうだ。ニュースタート事務局関西は千葉のニュースタートの後を追って設立(大阪府に登記)した。NSPも千葉のレンタルお姉さんに倣って始めた。NSPの名前は関西独自である。レンタルお姉さんの名前は風俗店が盗用したのも当然とうなづけるようなイメージがある。「新しい出発への随行者」という本来のというか当り前の名前にした。

「NSPは危ない仕事」というのはNSP本人の言葉や感想ではない。NSPの派遣あっせん人であり、管理者である私の意見である。「あぶない」と言っても「危険な」という意味ではない。NSP訪問の報告書を読んでいると、頑固なひきこもりで永年にわたって両親を悩ませ、誰からの呼びかけにもこたえようとしなかった人が、NSPのわずか数回の訪問によって心を開き、引きこもっていた時の心境を話し始めたりする。そしてやがてニュースタート事務局の活動を通じて社会参加を始める。これは素晴らしい醍醐味であり、他ではめったに味わえない体験ではある。私の勝手な感想であるが、これは一度味わえば「やめられなくなる」「あぶない仕事」ではないか?

引きこもりは病気ではない。だが親にとってはどうしたらよいのか分からなくなる難儀な事態である。家に引きこもり、何をどう説得しても動いてくれない。親の言葉に返事もしてくれない。生まれつきや幼児からの難病があったわけではない。中学生くらいまではむしろ優しくて大人しく親の言うこともよく聞いてくれる子だった。明らかに何かを拒絶している状態なのだ。それが何かが分からない。親は自分たちの人生の叡智をかけて話しかけるが返事さえしてくれない。世の中では親たちには理解できない若者の暴走事件が起きる。子どもたちはこんな引きこもりになったのも親たちのせいだという。自殺を口にしたり、無差別殺人をほのめかしたりする。壁に穴を開けたり、ガラス窓を割ったりの暴力沙汰もざらである。考えあぐんで、精神科医や心療内科を訪ねる。精神科医は精神病ではないとの診断。このあたりでたいていの親はあきらめの心境に入る。引きこもりになって5年、10年。私たちのもとを訪ねてくるのはそんな親が多い。

私たちは即座にNSPの訪問を勧めることはない。NSPは担当者が相手先を訪ねて行く。いきなり訪問するのでなく、相手先の家の事情を理解し、当事者の現況も把握するなどの準備が必要。さらに手紙を書いたり電話をしたり、相手に訪問を予告する。訪問先は他府県や半日がかりで行かなければならない遠方もある。当然のようにお金がかかる。最初からNSPを頼みに来る親もある。お金に困窮していない家庭もある。しかし、できることならお金などかけないで、引きこもりから救い出してあげたい。まず最初に勧めるのは鍋の会への参加である。鍋の会は他人への警戒心を解き、心を開かせ、友達づくりをさせるには最適である。軽症の引きこもりの中にはインターネットなどで鍋の会を知り、当事者自らが参加申し込みをして鍋の会に参加する人が多い。ところが長期に引きこもっていた若者は、そんな人の集まりそのものに拒否感を示す。自分が引きこもりであることそのものを否定し、病気治療の集団であるかのように鍋の会を拒否する。残念なことだが人間体験や社会体験そのものが乏しい引きこもりは、鍋の会という言葉からそんなマイナスイメージしか思い浮かばないらしい。

親が必死の思いで話しかけても返事もしないのにNSPが訪問するとなぜ口を開くようになるのだろうか?実は私にも分からなかった。NSP訪問を始めて、報告を聞いていてようやく理解できた。それはコミュニケーションの問題である。親は必死に話しかけており、親たちの一生をかけた知識を駆使してアドバイスをしようとしている。それでもコミュニケーションが足らないというのか?コミュニケーションが不得手というのは引きこもり当事者ではないか?やはり引きこもりは病気ではないのか?親たちの引きこもりに対す話しかけというのは一方通行の「説得」である。コミュニケーションというのは双方の意思伝達ではないのか?親の意見だけが一方通行で伝えられてもコミュニケーションにならない。子どもたちの心に届いていないのである。

NSPが引きこもりの若者の家を訪問する。すぐに本人に会えるわけではない。すぐに会えるのは2割くらいであろうか。8割は拒否される。そのうち半分くらいは顔を見ることはできるのだが、ほとんど無表情で無視される。残りつまり全体の4割程度以上は厳しい拒否にあう。自室に閉じこもってしまい、部屋に鍵をかけるかつっかい棒やバリケードなどで入室さえ拒否される。そもそも引きこもりは最初から訪問者の意図を見破っている。親から散々引きこもっていることを愚痴られ、突然見知らぬ人が訪ねてくるのだから。人嫌いや人間不信になるくらいだから、他人の考えには必要以上に敏感なのだ。NSPは親がお金を払って派遣を頼んだ訪問者だと知っている。だからもちろん歓迎もしないし、話にも応じない。NSPは扉の外から話しかけはするが、それ以上の無理な行動に出るふしもない。引きこもりの方は「連れ出し」にやってきたと分かっているから、身を固くして身構えている。ところがNSPは引きこもりが沈黙していると扉の前で沈黙し、時には2時間近くも待っている。やがてNSPは目的も達せずに帰っていく。そんな日が何日も続く。訪問した目的であるはずのことも伝えず「あなたと話したい」というだけである。親のように自分の意思を一方的に伝えることもせず、こちらの意見を聞こうとしている。もともと引きこもりはコミュニケーションが嫌いなのではない。一方的な意見の押し付けを拒否しているだけだ。引きこもりはやがて重い口を開いて話し始める。

半年も訪問したが口をきいてもらえず、訪問をあきらめたことがある。引きこもりの若者に対して「連れ出し」を口にしなかった。それから数ヶ月経ってその若者はNSPを訪ねて来た。NSPはあくまでも人を信じているのだ。

2008.10.11.

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