NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第235回 「汗(2)」

By , 2008年7月25日 12:24 PM

前回の直言曲言「汗」では訳の分らないことを書いてごめんなさい。訳の分らないことを言っていたのは私の父なのです。「汗」と「労働選択」「職業選択」のこと分かりましたか?分らなかったでしょう?私にも分らなかった。でも今考えれば、父の考え方は職業選択の未来図を予言していたのかもしれません。その職業観が正しかったのかどうかは分かりません。正しいかどうかは未来永劫に分からないかも知れません。しかし、今のところ「予言」としては当たっていたような気がします。

私の子ども時代、昭和30年代初めは復興期。日本の戦後復興期であるだけでなく20世紀にあった2つの世界大戦を潜り抜け、科学技術が近代文明に飛躍的に導入され始めた時代。私たちの日常生活も毎日のように様変わり始めた。家庭生活の電化というのもその一つ。電気洗濯機はそれまでのタライと洗濯板のごしごし洗いを一変させた。人々はそれまで力を込めて汗をかいて働いていたものをボタン一つで仕事を済ませることが出来るようになった。家庭生活における変化も大きかったが、機械化は労働の質を大きく変えた。それまで人間が筋肉を使って汗をかいてしていた仕事は、機械がやってくれるようになった。自動化とかオートメーションというのがその名前であった。オートメーションによって多くの労働者が失業した。機械化が多くの失業者を出したのは事実だが、やがて人間はより多くのものを生産するようになり、汗をかいて働く代わりに機械を操作する働き手を必要とするようになった。工業化の時代である。さらに工業化・機械化が進むと、工場や機械、労働者を管理する人間が必要になった。あるいは、工場や機械ではなく、冷房の利いたオフィスにいて生産計画や販売計画にばかり専念する人が多数派になった。機械化が大型化や複雑化すると機械を操作するのもコンピュータの役割になって、技術者さえ少数のもので済むようになり、余った人員は管理者に奉仕するサービス化の時代になっていった。

こうして人々は初めは汗をかき、やがて技術を必要とし、その技術さえ知識に取って代わられ、知識や記憶や判断さえコンピュータに取って代わられる時代になった。それが現代である。つまり人間が不要になったのである。厳密に言えば人間は不要にならないけれど、機械やコンピュータなど次々に人間に代わる能力を発明していけば、飯を食い、汗をかく人間など不要に思えてくるのである。だからそんな面倒でコストのかかる正社員など採用せずに、人間以下の存在であると思っている外国人を雇用し、工場もどんどん海外に移転しようとするのである。企業家にとって外国人など機械に代わるエサ代の安い動物としか映っていないのである。幸い少子高齢化の時代であるらしい。日本ではこれからどんどん労働力は減っていく。本来なら生産力も消費力も減衰し、GNPも減っていくからいわゆる国力は小さくなって行かざるを得ない。しかし、今の企業家にとってそんなことは関心外である。自分たちの会社さえ儲かればよいのだから。だから国内の生産力は落ちても海外工場で国際ブランドと化した自社製品が生産され、販売され続ければそれでよいのだ。産業の空洞化や就職氷河期というのは単なる経済システムというより、人間の根源的な労働のあり方や文明のあり方に潜む問題である。今これに気付いて原点に立ち戻らなければ、やがては日本だけでなく、先進国から順番にネズミが集団自殺をするように滅亡に追い込まれていくだろう。資本主義とはあるいは新自由主義とは「滅亡する」自由のことを言うようである。

新自由主義の象徴のようなのはアメリカにおける原油市場への投機である。おかげで1バレル140ドルともなり、石油ショックのころの5倍にもなろうとしている。ガソリンは1リットル180円を超えたとかで大騒ぎをしている。自動車を走らせるガソリンが高かろうが、火力発電を支える重油が高かろうが、私は一向に困らぬ。むしろ人類の文明を堕落させた元凶のようなものである。しかし、最近は便乗値上げか何か知らぬが、食料品まで一律に値上げとなり、いささか困っている。特にショックを受けたのは先ごろ行われた漁業者の一斉出漁停止である。本当かうそかは知らぬが、マスコミでは市場やスーパーから魚が一斉になくなるかの騒ぎであった。しかし実際には全漁業者が出漁停止したはずの翌日もスーパーの魚売り場には大した異変はなかったし、近所の回転ずしのお皿も回っていた。

結果論で言うのではないが、こんな出漁停止なら1日と言わず1ヶ月でも続けてくれればよいと思う。聞くところによると軽油の高騰で出漁すると油代が高くて、魚を売っても油代の半分にもならないという。市場でのセリのシステムが小売値先行でコストをまかなうシステムになっていないのだそうだ。ラスベガスでのポーカーゲームのような原油投機に石油の値段を委ねておいて魚の値段が安すぎるとは漁業もまた資本主義の悪弊に染まっている。消費者に責任転嫁されても困る。だいたい私たちが子どもの時代と漁業自体が様変わりしている。私たちの子ども時代は市場に行くと魚屋さんが「今日は鰯が安いよ」とか今日は「さんまが大漁だよ」とかいって、その日沿岸漁業で大量にとれた魚を安売りしていた。最近は年中値段が一定で安い魚などなくなった。最近は遠洋漁業が盛んで、世界の果てにまで出かけて行ってしかもトロール船で捕りつくし、売りつくし、食べつくすのであるから昔の漁業とは違っている。

考えてみれば一日でも、1ヶ月でも出漁停止されても困らない。先日もそうであったが、漁師さんは1人も出漁していないらしいけれど、冷凍魚はふんだんにあるし、干物もある。 缶詰もあれば養殖物もある。魚不足などこれっぽっちも実感しなかった。私などこの5年間くらい鯛やハマチは養殖物しか食べたことがない。いつ・どこでとれたのか分からない素性の知れない天然物よりも養殖の方がおいしいのだ。食味も歯ごたえもそうである。貧乏人のやせがまんだと思う人は一度食べ比べて欲しい。ちなみに私は牛肉も三重県産や兵庫県産の養殖物で、アメリカやオーストラリア産の天然のバッファローは好まない。日本は食糧自給率がカロリーベースで39%。工業化や貿易で稼いだお金で他国に食料を頼っている。おまけに食料廃棄率も25%。調理したものもカロリーベースで4分の1は捨ててしまっているらしい。気ままな客の多い高級レストランのような食卓をもっていて、飢え死にする人もいる他国とまともに付き合っていけるのだろうか?汗をかいて働かないと、魚も食べられなくなるようになるまで、少しは飢えの体験をした方がよさそうだ。

2008.07.25.

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