直言曲言 第205回 「精神病とは?」
引きこもりはしばしば精神病に混同される。いやむしろ『混同』とは、区別するべきものの性質がはっきりと異なるものだとすれば、引きこもりを精神病と疑うのは『混同』とさえ言えないのかもしれない。精神病とは最も精神科医に寛容な理解をすれば『精神疾患』一般を指すとも言われている。確かに最近の精神病院とは狭義の精神病だけではなく、鬱病や神経症、神経のいらつきなどでも受診する『カジュアル』な病院ということになっているようだ。狭義では統合失調症、躁うつ病、てんかんが三大精神病といわれている。しかし異説ではてんかんの変わりに神経症を精神病という説もあり、明確な定説はないようである。インターネットなどで調べて見ると精神病については様々な分類学のようなものが紹介されているがそもそも『なにが精神病の症状か』という『定義』はないようである。精神科医に聞くとバカにしたような冷笑はあるが『定義』のようなものは聞けない。要するに『普通じゃない』状態をさすらしい。『普通じゃない』というのはどんな状態なのか?普通の人が見て『おかしい』と思う状態なのだろう。『普通』とは大多数の人という意味だろう。大多数の人が見て異常と感ずれば魔女狩りも成立するわけだ。 『我が目を疑う』という言葉がある。道を歩いていて、交差点で信号が赤になっていれば、立ち止まって青になるのを待つだろう。だけど赤の次も赤、その次も赤だったらどうしよう。まずは我が目を疑うだろう。しかし、眼を凝らしてよく見ても信号は3色とも赤。普通は赤、青、黄が順番に点るものだが、3色とも赤である。こうなると、間違っているのは信号であり、我が目ではない。信号機を疑った方が良い。ところが親は信号機を疑わず、我が子を疑う。我が子が高校を卒業したり大学を卒業しても、就職しないのを『おかしい』と思い、やがては精神科医にまで連れて行く。精神科医も精神病とまでは断定できず、曖昧な診断をする。
不況になり、人件費負担が高いと感じた企業は正社員の採用をやめて、臨時社員やパートタイマーを雇用するようになった。やがて海外に工場を建てて人件費の安い海外労働者を雇用するようになった。日本人の雇用は極端に減り、就職氷河期といわれるようになった。いわば信号機が全部赤になったようなものである。これでも就職しない(就職できない)我が子の眼の方を疑うのであろうか。悪くもない我が子の眼の方を疑い、薬を与えたり入院させたりしようとするのだろうか。
世の中の出来事を何でも当たり前のこととして認め、それに対応できない人を精神病扱いすることには反対である。私は子どもの頃大阪の釜が崎と言うスラム街に住んでいた。世間の人は釜ケ崎の住人といえば皆、精神病か怠け者のように思っていた。しかし、10年以上釜ケ崎に住んでいた私は頭のおかしい人や怠け者にあったことはない。但し『1~2の例外を除いては』だ。1人はMというヒロポン中毒の若い男だった。『ヒロポン』というのは戦後流行した覚せい剤のことで、釜ケ崎ではその頃簡単に手に入った。それもそのはず、顔見知りの隣のおばちゃんがヒロポンの密売人だったりした。Mというのは釜ケ崎に住む30才頃の若い男であった。普段はおとなしく、肩を落として歩き、近辺の有名人だった我が父から『おい、M、真面目に仕事しろよ!』などと叱咤されていた。しかし、たまに金が入ったときなどヒロポンを打ったのであろう、肩をそびやかして歩き、目つきも違っていた。我が家にやってきて『おい、おっさん、この前はえらそうに言うてくれたなぁ!』などと凄むのである。なに、ただそれだけのことであり、刃物を突きつけるわけでも乱暴を働くわけでもなかった。ただ、ヒロポンで『正気』を失っていることだけは確かで、私はこの男がいつどのような暴挙に出るのかわからないと恐れていた。もう一人、私が正気を疑った男も、見た目には気弱そうで、おとなしい初老の男だった。
この男は当時65歳程度、ぼろぼろの色の見分けもつかないような衣服をまとっていた。この男の職業は『もく拾い』。『もく拾い』というのは、今はもう廃れてしまった職業で、もく(タバコ)の吸殻を拾い集めるのである。煙草の吸殻を集めてほぐし、巻きなおして再生煙草を作るのである。もちろん密造であり、密売されていた。竹の棒の先に木綿針、またはペン先を巻きつけ、道路に落ちている吸殻を拾うのである。今でもあるような粉ミルクの缶に一杯で50円。煙草は当時昭和30年頃で、ピースが10本入り40円、光が10本入り30円だったが、再生煙草は10本10円。『西成ピース』の名で売られていた。まだ第一次西成事件(昭和36年8月に起きた暴動事件)の前で、『釜ケ崎』という通称もなかった。この男は聞くところによると昔、不倫をしていた妻を刺殺して刑務所に入っていたそうだ。人を殺したことのあるような男には見えず、温厚な顔をして、いつもニコニコ顔にこれもヨレヨレの帽子を被っていた。帽子は軍帽だが、固いつばの付いた制帽ではなく、首筋の日焼けを防ぐためか、後ろにもひたたれの付いた略帽で、戦時中の遺物であった。
『もく拾い』は『地見屋(じみや)』も兼ねていた。地見屋というのは正式な職業ではない。地面を見て歩くことを生業(なりわい)にすることであり、時たま地面に落ちている金品を拾うこともあるのである。金品を拾うことなどまれであり、職業としては成立しない。しかしもく拾いも地面ばかりを見て歩くのであり、地見屋をかねることは可能であった。この初老の男はみすぼらしい恰好をして、いつもニコニコ現れるのだが、あるときパリっとした背広を着て、革靴を履き、紳士然とした姿で現れた。私たちは驚いたが、地見屋として大金を拾ったのだという。いつものようにモクを拾おうとして、なんば近辺を歩いていると大金入りの財布が落ちているのを見つけたという。お金を拾ったら、交番にでも届けるのが今の常識だろうが、その頃の西成にはそんな奇特な人はいなかった。その老人は拾った金で身なりを整え、その上一晩豪遊した上で、飛田新地で娼婦を買い『鏡の間』で遊んできたという。その頃の私はまだ子どもで『鏡の間』が何なのか分からなかったが、そのおっさんがあぶく銭を拾って、何か不道徳なことをしてきたのだということはわかった。
私が知っている10年ほどの間に、その初老の男は2度ほど、大金を拾ったらしく、2度とも身なりを新調して、やはり「『鏡の間』に行ってきた」と頭をかきながらはにかんでいた。その後は3日ほどは姿を見せなかったが、4日目にはまた何事もなかったように、以前のぼろぼろの姿で現れた。腰に粉ミルクの缶をぶら下げていたのもいつも通りであった。 大金、といっても数万円のことであろうが、どうせ猫ババするのであれば、その金を元手に更正して、まっとうな職業に就けばよいのに…、私はそう思っていた。昔、妻を殺してひっそりと生きている初老の男にとって、何年かに一度大金を拾って『鏡の間』で遊ぶことは、社会を裏切ることによってあざ笑う、つかの間の狂気であったのだろうと私は思うのである。
2007.09.30.