直言曲言 第200回 「貧困」
格差社会である。格差とは貧富の格差。本来は『格差』とは『隔(へだ)たり』のことであるから身長の格差や成績の格差などもいう。今さらながらに格差社会のことを強調しなければならないのは、貧富の格差というものを知らない若者が多すぎるからである。若者だけでなく、大人たちまで世の中に貧富の格差があるということを知らないふりをしている。特に若者は、貧富の差だけでなく、『貧しさ』つまり『貧困』そのものを知らない。
『豊かで、出口(目標)のない競争社会』 引きこもりが蔓延する現代社会のことを私はこう表現している。『競争社会』であることは、今も昔も、私たちが若かった時代もそうである。私たちの若かった時代には、日本全体が貧しかった。豊かになるという『目標』があった。だから『競争社会』であることも例えば受験競争も『必要悪』であると、受け入れてきた。それで良いとは言わない。今は目標が見えない。学校を卒業しても就職先がないし、就職しなくても親たちが豊かで、経済的に困ることはない。だから競争することの意義など見えないし、勉強する意味も分からない。必要ですらない競争であるといえる。
貧しさというのはある意味で不幸な状態である。貧しくないからといって、若者本人の責任ではない。しかし『貧しさを知らない』というのは、人間の務めとして不十分なのではないだろうか?交通事故の悲惨さを知らないとか、地球環境の危機を知らないとかは単なる無知で済まされない。『戦争を知らない子どもたち』という言葉があるが、これは戦争の悲惨さを伝えない大人たちの罪であるとともに無知を顧みない子ども世代に対する警告でもある。経験もしたことがないのは仕方がないとしても、知識や情報に対しても無関心であるのは罪である。テレビを見てもお笑いやバラエティばかりでニュースが始まるとチャンネルを変えるというのでは困る。今も世界のどこかで戦争や貧困が厳然としてある。見たことがなくても想像力というものが教えてくれるはずである。それがなくては貧困というものをなくす努力が出来ない。
今の若者の多くは貧困というものを経験したことがない。貧困がどれほど苦しいものか知らない。貧しさにもよるが、ひもじくてもご飯が食べられない。住む家がない。学校へ行きたくても学べない。将来の希望が見えない。病気になっても病院に通えないし、薬も買えない。今の社会を『豊かで、出口のない…』とは言うが『貧しさ』がなくなったとは言っていない。それは厳然として存在する。それが格差社会なのである。若者に貧しさというものが、たとえ想像の世界だとしても分かるだろうか?あなた方のお父さん、お母さん方は貧困からあなたを守るために、あるいはそうならないために必死になって働いてきた。その為に人生の中で大切にすべき何かを見落としてきたかもしれない。ひょっとするとあなた方が引きこもりになったのもその為だ。競争社会とはそんなものだ。格差社会と言い、勝ち組負け組などともいう。もちろんそんなものを固定化してはならない。しかし引きこもりの若者は、社会の中で負け組にされかかっているのを知らない。負け組なのに、勝ち組になりたいからといって格差社会を支持している人までいる。
あなた方のお父さんと競争して負けた人がいる。どんな競争かは分からない。お父さんが会社の管理職で相手は賃上げを要求して、挙句には解雇されてしまった人かも分からない。飲食のチェーン店で出店競争をして負けた人かも分からない。いずれにしても相手は給料がもらえなくなったり、場合によっては倒産して貧しくなってしまうだろう。お父さんには罪がないかもしれない。相手にも罪はない。ただ、あなたが学校の試験で友達より成績が上だっただけと同じことだ。その競争はやむをえないこととして、その結果が貧富の分かれ道になったり、さらにその貧富の差はますます拡大し、貧富の格差が固定化するのは良いことだろうか。もちろんその貧富の差は競争の当事者だけでなく、その子や孫にまで受け継がれていく。それが固定化だ。例えば、あなたはまだ競争社会での本当の勝利など勝ち取ったこともないのに、何不自由のない生活をしているが、あなたの友達はお父さんが会社の倒産を経験したということだけで学校にも行けないというようなことは当然なのだろうか?貧しさのせいで離婚したり、一家離散したり、自殺や一家心中までしてしまう例もある。
今、日本では自殺者が年間3万人を超す。中でも目立つのは中高年の男性である。自殺者には圧倒的に無職者が多い。自殺原因の第一は健康問題・病気だが、第2位は経済問題つまり貧困である。貧しさの結果病気になったり、病気になっても貧困で病院にいけなくて、絶望して死んでしまう人が多い。だから、貧困を遠因とする自殺者はかなり多い。消費者金融に手を出し、どうしようもなくなって自殺をする人も後を絶たない。引きこもりの中にも、人生に絶望して死んでしまおうという人はいる。その苦しみを理解できないのではないつもりだ。しかし実際に死んでしまう人はほとんどいない。死ぬほどの苦しみを分かって欲しいと親たちに訴えているだけだ。実際に死んでしまうほど絶望していないのだ。私は、引きこもりは絶望するような問題ではないと思っているから死なないでいて欲しいと思う。
引きこもりの若者のほとんどは無職であるから、自殺者の多数派と同じだ。ただ、若者は無職でも絶望していない。若者は無職でもそのほとんどは貧困ではない。なぜなら親に養育されているからだ。親たちは奮闘して社会の中堅に居座っている。だから若者は社会に絶望したふりをしていられる。そのくせ本当の貧困を知らないなんて許されない。
貧困は、『その当事者が努力をしなかったせいである』本気でそう思っている人やそれを広言する人がいる。貧困は資本主義が生み出す政治的・経済的な悪である。資本主義というのは株式会社とそれが支配する経済システムである。 大きな資本で大きな会社を作れば、競争力があり、経済的な競争に勝つ。労働者を安い賃金で働かせることが出来て、安い製品を生産できる。大きな資本を集めることの出来る合法的な場というのが株式市場である。株式市場で人は株式を売買する。株価は上がったり、下がったりする。当然、株で儲ける人もいれば、損をする人もいる。この損得も競争社会では是認される。勝者が勝ち誇るためには、敗者がいなければならない。だから資本主義社会では競争が是認される。結果的に貧困も格差社会も是認されている。自己責任なんて言葉も、株式市場に投資して損をした人に対して向けられる。貧しくて、病気がち、パートや臨時社員など不安定雇用で低賃金の人たちに自己責任なんて言葉が使えるのか?地震や台風で被害を受けた人に『頑丈な家に住んでいなかったから』 『自己責任だ』などといえるのだろうか?
貧困は他人事ではない。残念ながら引きこもりの若者たちは、将来両親たちが死んでしまったら貧困層の第一候補者である。幸いなことに途中で気がついて引きこもりから抜け出す道を歩いているなら、貧困問題を他人事とせず、社会悪としての貧困に立ち向かうべきである。日本スローワーク協会は貧困を追放するための運動でもある。
2007.07.23.