直言曲言 第191回 「幸福になる技術 」
人間の一生には「幸福だ」と思えるときもあれば、「不幸だ」と思えるときもある。幸も不幸もちょっとした気持ちの持ち方しだいである。美味しいものを食べたときや、きれいな景色を見ただけでも幸せな気持ちになれることがある。愛する人たちに囲まれていたり、難しい試験に合格したり、結婚式を迎えたり、幸福を感じるときは様々であろう。不幸だと思うことも同じである。怪我をしたり、病気をしたり、親しい人と別れたときにも不幸を感じる。だけど、人生のファンダメンタル(基本的な条件)はそれほど変わっているわけではない。ある出来事を幸福と感じるか不幸と感じるかはその人の人生の受け止め方ひとつである。
あるとき水溜りの横を通っているとき、トラックが走ってきて泥水を跳ねられた。いやーな気分になったけれど、その日はお天気が悪かったので汚れても良いズボンをはいていて、泥だらけになったズボンを見て汚れても良いズボンだったのに少しラッキーな気分にもなった。考えてみれば不幸だと思う今日も、幸福だった昨日も同じように健康で、人生の基調は変わっていない。ちょっとした気分の持ちようで幸・不幸の受け止め方は変わってしまうのだなと思う。この『受け止め方』が下手な人がいて、しょっちゅう『不幸』ばかりに見舞われている人がいる。
先日も悩みの相談を受けているときわが身の不幸を嘆く人がいた。職場で事件が起きて、自分の責任ではないのに自分に非があるかのようになじられたというのだ。同じことを何度も繰り返してもう話はおしまいかと思えば、今度は次のことを嘆く。どこまで聞いていてもわが身の不幸を嘆くばかりで、それも他人のせいで不幸に陥れられたという話ばかりである。ここは裁判所でも警察でもない。他人の不正を正したり、罰したりする場所ではない。己の身の処し方に自制の念が向かない限り、どんなアドバイスもして差し上げることはできないのだ。ひきこもりの相談に見えるお母さんの中にもそんな方はいる。息子が引きこもりで困っている。『学校へ行け』と言っても、返事をしないし、口をきいてくれないそうだ。ここまでは分かる。しかし○○をしてくれないという話が延々と続く。いい加減うんざりしてきた。こんなお母さんだと、引きこもりにもなりたくなるだろうなぁと、ふと息子に同情したくなる。一通り息子の悪口が終わったと思ったら、今度はご亭主の悪口である。いくら息子のことを相談しても『しばらく様子を見なきゃあしようがないじゃないか』の一言だそうである。いかに自分が子育てに奮闘しているか、それに比べてご亭主は無関心か、自分は孤立無援で不幸であると嘆く。亭主であろうと子どもであろうと、他人を批難しているだけの人に問題解決の糸口は見えてこないだろう。また同情をして頷く以外にこの人を満足させる方法はないなと感じた。
人にはいつも楽観的なものの見方をする人と、何事にも悲観的な見方をする人がいる。楽観的な人は出来事をすべて楽観的な予兆として見、悲観的な人はあらゆる出来事を悲観的な予兆として見てしまう。楽観的な人はすべて楽観的に見るので良い傾向にしか気がつかない。またいつも楽観的な条件を考えているので、その楽観的な条件が満たされるように努力する。悲観的な人は何を見ても悲観的に見るので、良い傾向が現れてもその傾向については見落としてしまう。これでは悲観的な結果だけが意識されてしまい、そのとおりになるとますます『自分は不幸な人間だ』と思い込んでしまうことになる。
引きこもりの若者と付き合っているとよく耳にする言葉がある。『私はコミュニケーション技術が下手だ。だからコミュニケーション技術がうまくなりたい。』引きこもりの若者というのは人間不信や対人恐怖があり、人と仲良くなるのが下手だ。だからうまく人に話しかけたい、という気持ちは分かる。若い頃、小学生の頃からクラスには瓢軽(ひょうきん)な友達がいてクラスの人気者だった。テレビで見る若手の漫才師はいつも人を笑わせている。自分もそのような技術を身につけたいというのだろう。私は人を笑わせるのがコミュニケーション技術だとは思わない。コミュニケーションとは『意思疎通』のことであり、お互いに意思が通じ合うことである。前にも書いたが「友達になりたい」と思えばその意思を表現すれば良い。それは親愛な目つきでも良いし、にこりと笑いかけることでも良い。要するにコミュニケーションの意思を伝えるだけでよい。それを私は『友達シグナル』と呼んでいる。何も吉本興業の若手のようにお笑いギャグや持ちネタを増やす必要はない。だからコミュニケーションには「技術」など必要はない。いつも私はそう言っているのだが、若者にはそれが通じているのだろうか。技術革新の世界だから、人と付き合うのにも「技術」が必要だと感じるのだろうか。生きていくのにテクニカルな技に頼るというのはどうだろう。
ところで生きていく上で、より多くの「喜び」や「満足」を感じるにはむしろ「技術」が必要なようだ。それは「生きる技術」と言っても良い。「幸福になる技術」のことだ。それは色んな出来事をすべて悲観的に見てしまうのでなく、出来るだけ楽観的に見ていくことだ。これはうわべだけをごまかして、楽観的な人生を生きろということではない。先ほども言ったように、すべてを楽観的に見ていくためには、楽観的な出来事の実現に常に積極的に加担するという強い意思性が必要になる。悲観的な人は、この意思によって左右されるような事態に臨んだ時に努力を放棄してしまってはいないか。
これは単純なように見えて案外大きな差となる。何しろ楽観主義か悲観主義かなどというのは、「癖」のようなものであるから、何度も繰り返される。ちょっとした努力やものの見方が大事な場面が、人生に何度も現れる。その都度悲観的な見方をして、途中で諦めていては幸福などつかめるわけがない。
若い時にちょっとした努力の差で成果が左右されてしまうことに入学試験や恋愛などがある。入学試験というのは特定の学校を選んで受験するのだから受験生に実力の差はそれほどない。受験校のトップクラスの学生と落第生が力比べをするのではない。言うまでもないが受験前や試験中には最後まで希望を捨てずに努力をすべきだ。運悪くわずかな得点差で試験に落ちたとしても、人生の敗残者になどなってしまってはいけない。それはちょっとした努力の差でしかなかったのであるから。
恋愛というのもそうだ。青年期の恋愛は片思いであることが美しい場合もあるが、想いを告げる前に諦めては成就するものも成就できない。大体、愛を告げる告げない以前に愛すること自体に臆病になってしまう人がいる。愛というのは愛さなければ愛されないものだと知るべきだ。愛して、愛して一念に念ずれば相手に伝わる可能性も生まれてくる。あなたが無関心であれば、相手も無関心になるのは当たり前だ。だから何億という人の中からベターハーフというのをみつけだせるのだ。
これは人を愛するときには限らない。趣味でも仕事でも、いい加減な気持ちで取り組むのでなく、真剣にそのことを愛して欲しい。そうすればいずれは相手もにっこりと微笑んでくれることがあり、あなたとそのことの蜜月関係は生まれるだろう。それが幸福になる技術である。
2007.05.22.