NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第213回 「怒り」

By , 2007年12月17日 6:05 PM

先日訃報が届いた。私の実弟の妻の弟。私の義弟に当たる。自殺だった。親戚だが、弟の結婚式以来だから、もう十数年会っていない。某有名私立大学を卒業して、ある会社に就職した。数年で退職し、その後職場を転々とし、最近はフリーター生活だったようだ。30台半ば。端麗な顔立ちをしたスマートな青年だった。未婚だが、特に持病があったとは聞いていない。失恋して、人生をはかなんだのか事情は知らない。いずれにしても、自ら命を絶ったくらいだから、よほど我慢の出来ない出来事があったのだろう。悔しくてならない。命を絶つくらいならどうして我慢の出来ないことに対してがむしゃらに闘わなかったのだろうか。夢を持って世の中に出ても、仕事先選びに失敗することはある。フリーターになってしまえば安い時給で、使い捨ての仕事をさせられる。それがいくら不本意で、不条理な出来事であっても、自ら敗北を認めて命を捨てることはないだろう。もし、認めがたい不条理な出来事があるのなら、私だったらそれと闘う。闘ってその敵に明確な傷を与えたら、殺されても良いと思う。私はそんな性格だ。

昭和19年10月私は大阪市で生まれた。その後戦火は激しくなり、大阪大空襲などを経て敗戦時昭和20年8月15日には北海道旭川市の近く、鉄道で数駅はなれた比布(ピップ)という村にいた。もちろん1歳に満たない私に、その当時の記憶があるわけではない。ただ、後に成長してから父と母の昔話にピップとかランルとかワッサムというアイヌ語らしい地名が盛んに登場した。夏場だから雪が降っていたということはないだろうが、何もない平原だったようで『隣りの家』というのは1キロも離れていたそうだ。終戦の報は馬に乗った隣組の役員により知らされたという。父は大阪で招集令状(赤紙)を受け取った。当時は徴兵制で、戸籍簿による召集令状が届くと『お国のため』と称して出兵しなければならなかった。長男である私が生まれた直後の父は、その赤紙を破いて福井から北海道へと逃げた。つまり兵役を拒否して逃亡したのである。

戦争中にも戦争反対という反戦主義者はいた。しかし公然と兵役拒否をする人がどれだけいたのか。赤紙が届いて指定された日に正当な理由なく出頭しなければ、当然のごとく逮捕されるはめになる。病気でもなく、赤紙を破いて逃亡したとなれば全国指名手配になる。戦争に行けば人を殺させられる。自分も戦争の犠牲になって死んでしまう可能性はある。しかし大多数の人は『お国のため』という名目で徴兵され、『歓呼の声に送られて』応召した。父が反戦の思いに突き動かされて逃亡したのは、父母もなく、『天涯孤独』の身であったからではなかろうか。両親や親戚があれば、赤紙を破いて逃げるなどということは考えられなかった。たとえ同居していなくても、本籍地まで辿られて、同属にまで累が及ぶ。徴兵を拒否するのは『国賊』と言われ、親も『お天道さんの下を歩けない』という大罪であった。母は乳飲み子の私を抱えてこのまま捕まったら『この子は国賊の子どもになってしまう。』と心配し、父に自首することを懇願した。父は、『この戦争はもうじき終わる。もし、戦争が終わる前に雪が降ってくるような事があれば、その時は…。』と逃亡を続けたそうだ。

父が天涯孤独であったのは、父の両親は父が3歳の頃に二人とも死んでしまったそうだ。父は伯父夫婦に育てられ、苦学(アルバイト)しながら、旧制の専門学校へ通ったそうだ。しかし、専門学校を中退すると不良少年の仲間に入ったそうだ。親がいなかったから『いじめ』を受けたのか、その間の事情を父はあまり話さなかった。不良少年から暴力団まがいの顔役になり、相当派手な前半生を送ったようだ。その間に何度か逮捕され、監獄生活も送った。何度目かの監獄生活のとき、専門学校当時『文学少年』だった記憶が蘇り、短歌をはじめ、そこで文通をしていた母と知り合い、恋に落ちたという。

父の詳しい人生について語るのはやめるとして、終戦後は共産党に参加し、華々しい政治活動もしたようである。その後は病気をしたり、事業にも失敗し、私が物心ついてからはほとんどが失業者や浮浪者同然だった。自分が孤児から不良少年と言う不本意な前半生を送ったせいか、長男である私にはかなりの期待を持っていたようである。私は他の兄弟にもまして可愛がられたし、私が京大に入ると将来法曹関係に進んでくれるものと期待したものらしい。

私は貧困のため小学校に通っていずいわゆる不就学児童だったので、中学校に入って以来、勉強できるのが嬉しくて、高校で文芸サークルに入って少し横道にはそれたが、大学に入っても学問への憧れは強かった。ところが2~3年すると学問への憧れは薄れていった。先生方の講義はノートを見ながらうつむいたままの講義が大半で、現代社会への疑問に応えてくれるようなものは少なかった。そのうちクラブ活動の学生新聞編集活動や学生運動のほうに興味を惹かれ、弁護士になることなど夢にもてなくなった。人から見れば、堕ちこぼれていったのかもしれない。

これも父からの影響かもしれない。中学校の頃から、共産主義のイロハから講義を受けていた。マルクスやエンゲルス、レーニンについてはもちろん、三木清や河上肇などの著作も読まされていた。父にもその影響があったのだろう幸徳秋水や大杉栄、クロポトキンなどの無政府主義者の著作についても勧められた。マルクス主義よりもこれら無政府主義者の著作に興味を覚えた。私の子ども時代や中学生時代と言えば、昭和20年から30年代。当時の著名作家と言えばほとんどが自由主義者や共産主義だったような気がする。

こんな私に教育をしたのは父親だったのだから、私が学業を途中放棄して、左翼運動に傾いていったのは仕方がないのかもしれない。私は全共闘運動の渦中に反対勢力のスト破りに反撃したかどで警察に逮捕され有罪判決を受けたことがある。このことの経過についてはホームページの表紙に表示されているVoice欄に『自分で自分が何であるか決めた頃』と言うエッセイにまとめている。私の左翼志向に私の父のことを知っている人は『お父さんの遺伝だろう』と言う。父のことを大好きだった私は父からの『遺伝』を否定するつもりはない。しかし、オートマチックに運命が定められていたかのような『遺伝』と言う言葉に反発してしまう。父が赤紙を破って逃亡したことも、それまでの若い頃の人生にも、私が成長してからの失意の人生にも私は共感している。私が父に似ているとすれば、私の父への共感によるものであり、遺伝子などと言うものによるオートマチックな決定要因ではないと思っている。

父は、天涯孤独で苦労して人生を送ろうとしたが、社会の重圧に勝てなかったのだろう。ようやく子どもも生まれ、人並みの幸せをつかもうとしたときに、理不尽にも戦争に駆り出されようとした。前半人生の不良少年時代に培った『叛逆』精神が蘇り、権力に立ち向かおうとしたのだろう。もちろん、徴兵と言う不条理に対する憤怒はまだ若かった父の怒りに火をつけた。憤怒に対する反発は大事にするべきであると思う。長いものには巻かれろと言うような世の中の常識には進んで反発すべきだと思う。それが正しいひきこもりの進むべき道だと思う。

2007.12.17.

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