NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第153回 「到達点」

By , 2006年2月10日 1:18 PM

またこの季節がやってくる。ニュースタート事務局をやり始めて八回目の春。私は桜は好きだし、お花見は好きだし、春が嫌いな訳ではない。しかし、春はなぜか憂鬱である。春は卒業式のシーズンだし、入学式のシーズンでもある。どうやらそれらの式が憂鬱の原因らしい。

引きこもっていて、一歩前へと進めない人にとっては、他人がその季節の変わり目を楽々と飛び越えていくときに、小さなはざまを飛び越せない自分はなんだか歯がゆいし、いらだたしい。春というその季節まで疎ましい気持ちがして、好きになれないものだ。わが子がひきこもりになれば親は毎年他人の子の晴れ姿を羨ましく眺めていたりするものだから、決して晴れ晴れしい気持ちにはなれないだろう。

私とて、引きこもりの専門家と見なされて、引きこもりの若者の心理への同化作用が働く身となれば、職業病ではないけれど春になると心落ち着かない。 卒業式にしろ、入学式にしろ、本来は『うれしい』はずのものだが、なぜそれが苦しかったり、悲しかったりするものになるのであろうか?小学校の卒業式は六年間学んできて、その学業を終えるときである。しかし、卒業式が三月にあれば、四月からは全員が中学校に行く。

中学三年の3月になれば卒業式を迎えるが95%は高校の入学式を迎える。高校三年は大学受験のシーズンである。進学校となれば大半が大学受検をする。しかも全員が合格するとは限らない。憂鬱な春になるのは当然である。どこの国でもおなじであろうが、卒業式と入学式とはなぜ同じシーズンに行うのだろう?思うに、世間の大人は二つの行事をそれぞれ独立したものとは思っていないのではないだろうか。

二つの行事は連続して行い、しかもその二つの間には、できるだけ隙間がないほうが良い。『管理社会』である現代は世界中がそのように考えてしまったのだろう。ある学校を卒業してしまえば、できるだけ早く次の学校へ入れてしまうほうが良い。日本では、小学校から、あるいは幼稚園から大学までひとつらなりの学校、ひとつのプロセスであるようだ。

中学校までは義務教育なので小学校の卒業式と中学の入学式に境目が小さいのは仕方がないのかもしれない。すべての学校は次の学校の入学式との間に隙間がないほうが良いのだろうか。 私が問題にするのは、行事や儀式だけの問題ではない。高校の卒業式が大学へ入る関門のひとつであることは分かるが、高校教育とは独立した目的を持ったもので、大学受験のための捨石だったのではないはずだ。

それなら、高校の卒業式は高校の教育課程を終えた独立した節目の日としてお祝いすべきではないか。はるか四十年以上昔の話であるが、私にも高校卒業の時代があった。舟木一夫の全盛時代であるが学生服を着て、楡((ニレ)の木蔭に集った頃である。

赤い夕日が校舎を染めて 楡の木陰に沈む頃
嗚呼、高校三年生 僕ら離れ離れになろうとも クラス仲間はいつまでも

卒業式は済んだが、大学入試の合格発表はまだだ。誰も『卒業おめでとう』なんていわない。言ったかもしれないが、本気で言ったとはこちらも聞いていない。大学の合格発表の日。私の場合、幸いにも合格だったから良かったが、不幸にも大学不合格で浪人生活を送った人もいる。一浪の人は、翌年大学に受かったときに高校の先生から大学合格と高校卒業をあわせて『おめでとう』といわれたかもしれない。二浪の人は、さらに翌年。私の知っている人たちの中には、大学入試に落ち続け、ついに大学進学を断念した人もいる。

こんな人は、ついに高校の先生から『高校卒業おめでとう』といわれはなかったのではないか、と心配している。高校の先生にしても、卒業おめでとうなんて基本的な人間的挨拶をしなかったなんて、寝覚めが悪いのではなかろうか。 高等学校の卒業は小学校から数えて12年の教育課程が修了したことを意味する。12年間も勉強してきたのだから、少しくらい褒められても良いと思う。

ところが、次の4年間の大学のことばかり重視して、12年間の高校までの教育は軽視されがちである。だから、高校卒業おめでとうは言わず、大学入学におめでとうといいたがるのだろう。これでは高校卒で大学へ進学しない人は褒めるに値しないことしかしていないというのだろうか。私自身の記憶によれば、大学時代には高校時代に比べてそれほど勉強をしたという記憶はない。少なくとも、大学の授業や講義においてはそうだ。

にもかかわらず、人は、相手が学生時代になにをどの程度学んだかを聞くときに、最終学歴のみを聞き、それが高等学校であれば、それだけで大学卒よりも軽く見てしまう。これが学歴主義でなくてなんであろう。現実的な達成度よりも、見かけの目標値の高さに目を奪われてしまうのである。 12年間もの持続を褒められず、次の4年間の励ましだけを受けるとしたら、『マラソン』を走り終わったのにねぎらいも受けずに、『さらに10キロ走りなさい』と指示されたようなものである。

人はある仕事をしたときに『達成感』を感じないで次の仕事に向かえるものだろうか? 愛する妻や子どもの笑顔をみたり、あるいはしみじみと一杯の晩酌をしたり、人によって、さまざまなスタイルあろうが、一日一日の区切りをつけるための儀式の形がある。おそらくその儀式がなければ次の一日の労働の意欲もわいてこないという簡単だが厳粛な事実がある。

少なくとも私はそうだ。達成感を確かめず、人から褒められもせずに、次の一日を働き続けられるほどの勤勉な『馬車馬』ではない。 考えてみれば、日々励ましている人がいる。毎日、毎日叱り飛ばしている人がいる。そんなに毎日励まなければいけないのだろうか。励み続けなければいけないのだろうか。深呼吸をしたり、歩調をゆるめたりしてはいけないのだろうか。父母の時代には貧困の記憶があるのだろう。飢えたことも経験があるのだろうか。走り続けなければ、貧乏が背中から追いかけてくると思っているのだろうか。

貧乏に背中を追いかけられるのは、想像の世界としては分かるだろうが、現実にいつまでも走り続け無なければいけないとすれば、あまりにも貧乏くさい行いといえないだろうか。 日本という国が、世界で一番の債権国になったり、世界で二番目の国連分担金供出国であったりするのに、いつまでも、最も貧しい国のようであるのは、まさに『貧乏くさい』考え方によるものであるのか?それとも富の分配の偏りが大きくて、国民の大半は本当に貧乏なのだろうか?

私たちの国は、今はもうそれほど貧しくはないはずある。貧しい貧しいといって、それほど毎日励み続けなくても良いはずである。一日一日の、一年一年の、あるいはそのときそのときのプロセスを楽しみ、祝っても良いはずである。そうしなければ、何かの目標のためにだけ生きて、生きるプロセスに何があったか忘れてしまうのではないか。旅の目的地だけが記録されていて、その旅の途中でどんな楽しいことがあったのか抜け落ちている旅行アルバムのように…。 青春のまっ盛りにいるのに、何も楽しい思い出を作っていないように見える引きこもりのお子さんのような若い時を過ごしていると、年をとって漠然と死の時を待つだけの中高年時代を迎えてしまいますよ。今のあなたのように…。

2006.02.10.

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