直言曲言 第136回 「変身」
この夏ホームページの掲示板に一つの投書があった。
『僕は中学の頃から対人恐怖が深刻になってしまい、とにかく自分の異質で得体の知れない姿を無理解な人たちに知られないように、この病を隠すことに身を削っていました。』
この書き出しを読んだとき、私は強い衝撃を受けたことを隠そうとは思わない。これこそが引きこもりになった若者の偽らざる心境であり、『この病を隠すことに身を削る』ことこそ引きこもる意味である。引きこもりの動機や原因については、いろいろと論考してきたし、私なりに理解してきたつもりだが、それがなぜ『自宅に引きこもる』ことにつながるのか、私には理解できていなかった。『競争社会』の≪競争≫から降りてしまった自分を許すことが出来ず、自罰のために引きこもるのか、降りてしまった自分の弱さを恥じて引きこもるのか、いずれにしてもそのように類推するしかなかった。この投書を読んだとき中学時代に読んだある小説を思い出した。
『ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。』
プラハ(チェコ)生まれの作家フランツ・カフカの小説『変身』の冒頭の一説である。
数年前東欧を旅行したとき、チェコのプラハ城からダラダラと降りていく坂道でカフカの住まいだと教えられた、さほど大きくもない家を通り過ぎながら、不条理の作家と言われたカフカが『巨大な虫』に変身させることによって伝えようとしたAllegory(アレゴリー=寓喩)とは何かについて考えたが、上手くまとまらなかった。外交販売員であるグレゴリ―・ザムザは都市の匿名性の中で、生きることの意味を見失い巨大な虫に変身してしまう。考えようによっては、都市に蠢く群衆こそが巨大な怪物の群れであり、主人公はその逆投影であったのか、初めてその小説を読んだときの私の幼い感想であった。
投書はそのあとをこう続けている。
『10代の終わりに運よく、都会で一人暮らしできる環境になったのですが、それ以来、田舎や家族というものが巨大な化け物にしか思えず、実家とは連絡も取らずひきこもりになっていました。』
私が巨大な怪物に変身してしまったカフカの小説の主人公を『都市の中の孤独』と勝手に解釈してしまったのと違い、投書の彼は『田舎や家族』を『巨大な化け物』と感じ距離をとり始めていたのである。おそらく孤独感や違和感は共通していても、田舎や家族が陰湿で執拗な無際限の好奇の目や干渉を寄せてくると言う点では、怪物が己であれ、対象であれ、彼の引きこもりもまた、自己の内に棲む怪物を養いかねての告白であったのだろう。
『異質で得体の知れない』姿とは巨大な虫であり、それは肥大化したプライドとその容器(いれもの)としては余りにも矮小な俗世の人間の姿であろうか。いずれにしても田舎も家族も化け物であり、己も周囲の都市も怪物であり、妥協の余地のない『妖怪大戦争』の世界である。 ところで何の脈絡もなしに『妖怪大戦争』を登場させたが、この夏劇場公開されている水木しげるの妖怪世界と荒俣宏の『帝都物語』を合体させてしまったような超B級の娯楽SF映画である。
この映画に登場する妖怪の数々はろくろく首から雪女・水木マンガの砂掛け婆までどこか愛敬のある姿で、映画全体が妖怪カタログなのであるが、笑って見過ごせない妖怪も出てくる。それは帝都物語の大魔人・加藤の手下である鳥刺し妖女・アギが捕らえた(善意の?)妖怪たちを廃棄物の機械と合体させた『機怪』なる代物である。『機怪』とは随分手抜きでとぼけたネーミングであるが、これがSF映画のインベーダーたちのように無数に、しかも執拗に攻撃を仕掛けてくる。
都市とは肥大化した人間の欲望を人工的に造形した姿であり、その侵食力は無限である。
この映画では自然や田舎の象徴であるような『妖怪』たちと、都市と機械化や工業化の象徴である魔人・アギ・機怪たちの戦いとなる。映画の観客は、むろん導入部でいじめられっこの少年タダシが妖怪たちに助けられながら始まるストリーに安住していれば良いのだが、化け物と妖怪との彼我の見分けのつけ難い私には、結構混乱するのである。
『機怪』は元々善良(?)な妖怪たちが姿を変えられ、『帝都』魔人の悪の手下にされた姿であるが、機械化時代を諷刺したチャプリン映画の連想からか、過労死するまで働いた一時代前の日本人への憐憫の情からか、この『機怪』が爆殺されたり粉微塵にされたりするのを、正義の立場で拍手をしていられなかった。案の定、最後にやっつけられた『機怪』の大敵は主人公タダシが可愛がっていた妖怪『すねこすり』(これが映画「グレムリン」の中に出てくる「ギズモ」そっくりのぬいぐるみのようで可愛い)の慣れの果てであった。私にはこれが『競争社会』の中で引きこもりにされてしまった若者や、あるいは引きこもることも出来ずに奇形化されてしまった若者に思えてしまった。
『妖怪大戦争』の話はさておき、『異質で得体の知れない姿』になってしまった若者の話に戻ろう。この『異質』感とは何だろう。おそらく少し前までの自分は、学校や家庭やあるいは会社といった世間の人が住む世界を『異質』とは感じずに、当たり前の『成績を競うこと』『幸福感を共有すること』『より多くのお金を稼ぐこと』に疑問を感じなかったはずである。
ただ、あるとき『夢』から眼を覚ますと、巨大な虫に変身していて、昨日まで当たり前と思っていた成績や幸福やお金と言ったものが、他人と競い、あるいは他人を抑えつけて利己的な欲望の化身でしかなかったことに気づき、『異質』感を持ってしまった以上、その姿は父親や母親やあるいはかつての友人にも見せられない怪物になっていたのである。それは『異質』に気づいたものの不幸なのかも知れない。気づかないものたちは、人間の皮を被った化け物として生きつづけられるが、虫に変身した若者にはその姿は、知らないうちに世の中に蔓延しているゾンビに見えるのだ。
カフカの『変身』では主人公ザムザは虫の姿に怒った父親にリンゴを投げつけられ、背中にめり込んだ傷が元で死んでしまう。この父親の投げつけた『リンゴ』とは何だろう。西欧社会では『リンゴ』はさまざまな意味を象徴している。愛や富や知恵の象徴であるとともに、悪や失望の象徴でもある。引きこもりの若者に、父親が投げつけるもの『罵倒』『蔑み』そして時には『毒』としての『薬物』…。
虫になった若者には、家族の姿こそ化け物に見えることがあるのに、リンゴを投げ続ける父親たち。引きこもりの若者たちよ、毒虫の姿を見せてはならない。ひそかに引きこもり続けることだ。そして、本当はあなたたちの姿こそが本当の人間であることを理解する時代が来ることを信じて…。
2005.08.23.