直言曲言 第127回 「天職」
『就職がこわい』などの著書で著名な香山リカさん(精神科医、大学教員)が『天職探しはいかがなものか?』という論陣を張っているらしい。香山さんは大学の就職担当の経験などから、就職探しをする学生の心理などに詳しく、例えば就職面接などを前にしてのシミュレーションから面接を受けること自体に尻込みしてしまう学生の実態を紹介している。
『NEET』で知られる玄田有史(東京大学助教授)さんも『理想を追うばかりでなく』現実との妥協を勧めている。つまりは若者たちが『どこかに自分の天職がある』と考えて、就職に尻込みをしたり、就職しても『自分には向いていない』とすぐに職場を止めてしまう傾向に対して、『少しは我慢をしなさい』という大人の意見であろう。
これはこれで教職にある人の意見として、理解できないわけではないが、日頃若者に対して『天職を見つけよう』と話している私としては、自分の意見を批判されているようであまり居心地が良くない。香山さんの勤めている大学や玄田さんの東京大学では、学生がそれほど選り好みをしなくても、それなりの職場が得られ、我慢して正社員の身分を保持できるのであろうが、一般的な今の若者が職探しをする上で『理想を求めず、我慢しなさい』など言えるのであろうか?
少なくとも『NEET』の紹介者の一人である玄田氏は50万人とも80万人とも言われるNEETの定義を知っており、彼らが東大であろうとなかろうと、大学新卒者ではなく失業中(ないしは無職)の若者であることを知っているはずである。これは私の意見であるがNEETとは、好きこのんで『無業者』でいるわけではなく、第3種の引きこもりとして社会的に疎外され、対人恐怖や社会的不適応の状態に追い込まれている若者なのである。
もちろん私とて、NEETや引きこもりの若者が、いつまでも『無業者』でいたり、経済的に親に依存したままの状態でいても良いと考えているわけではない。ニュースタート事務局関西では引きこもり脱出の3つの目標を『①友だちづくり、対人恐怖の克服②家族からの自立③社会参加』と設定しており、『社会参加』とは取りも直さず『就労』=仕事に就くことを意味する。
職業に就くことは人生の一大事であり、その職業を見つけることが若い人にとって人生前半の大きな仕事である。人が若いうちに自分の天職だと思える仕事を見つけ、その仕事に就けることは一種の僥倖(ぎょうこう)である。『天職』とは天から、つまり『神』から与えられたと思える職業のことであり、余人を以って替えがたし(他人には代理が出来ない)ほどの適職を意味する。この考え方は基本的にはキリスト教的な職業観ではあるが、ある意味では世襲的な職業観でもあり、社会安定のために職業や身分の固定化を図ろうとする中世的な思想にも裏付けられている。
日本でも戦前まではこうした世襲制度や事実上職業選択の自由がなかったことから親から受け継いだ職業や徒弟制度の中で実につけた技術を『天職』と考える傾向が強かった。戦後は60年が経過したが、戦災であらゆる産業が壊滅的打撃を受け、戦後復興の中で職業自体が再編成の時代を迎えた。いわば究極的な職業選択の自由の時代であった。ところが職業選択の自由は保障されていたのだが、現実には工業化による効率化と画一化の時代であった。つまりは機械化によって大量生産が追及され、職人技術は尊重されなくなり、第一次産業や手工業はどんどん比率を下げた。勤労者のほとんどがサラリーマン、給与生活者となり、労働の質も均一化された。そこには、天職とするような技術も誇りも既になかった。
この20年ほどの間に、日本人の職業観はまたも大きく変わらざるを得なかった。サラリーマンとしての就職が、ほぼ一生の生活を保証していたような終身雇用制や社会保障のシステムが崩れた。大量生産・大量販売・大量消費のような画一的生産システムが崩壊した。あるいは画一的な技術は世界的に蔓延し、この面での圧倒的な競争力を保持していた日本の経済的優位は崩れた。従って画一的な学校教育を受けた学生・生徒を大量に受け入れてきた企業社会は人材の吸収力を失った。低賃金で不安定な就労であるサービス労働だけが、画一的なマニュアル労働でフリーター労働力を吸収しようとしている。
『天職志向を持たず、理想を追うな』という人たちは、NEETや引きこもりなど就職条件や機会に恵まれていない社会的弱者である若者に、アルバイトやフリーターに甘んじることを求めている。正社員の何分の1に満たない生涯賃金、安定雇用の保証もなく、技術教育やキャリアプログラムもない。社会保障や年金も保証されないフリーター生活に忍従しろと言っている。
今、若者たちは世間のNEET認識のように『働く意欲のない若者たち』ではない。正社員の職場を選り好みして職に就かず、親に経済的に依存し続けようとしているのではない。ニュースタート事務局では、対人恐怖に陥っている彼らの人間関係を改善して、仕事体験を積ませようとしている。私たち事務局が考えるよりも早い時期から、アルバイトなどの仕事体験を積極的に望んでいる。ただ、残念ながらそれらのアルバイトはほとんどがフリーターとしての仕事であり、絶望的なまでの単純労働がほとんどであり、最低賃金の基準を満たすかどうかの低賃金である。彼らは、それでも働いて得たわずかな賃金が、それまで全面的な親の負担に依存してきた経済生活の中での学習費用や、運転免許をはじめとする資格取得に充てようとしている。
私は一方で、天職探しや自営業の勧めを口にしつつ、彼らの肉体をすり減らすような労働を見守っている。少なくともそれは労働の体験であり、人間関係の学習であり、経済主体になることの第1歩であるからだ。
私が天職探しを勧めるのは、少なくとも最初から高い技能特性を発揮したり、高賃金・好条件の職場を探せと言っているのではない。あるいは人に雇われて、人から与えられる労働条件としての『天職』など、ありえないと断言しても良い。『天職』とは神から与えられるものですらないのである。さまざまな仕事体験の中から、働きがいや生きがいの発見につながり、働くことの喜び、人や社会の発展につながることを自覚したとき、そこに天職の発見がある。天職とは努力して辿り着く到達点である。
好業績の会社に就職し、高い賃金を保証されるのが天職に就くことではない。所得のために不利な条件に甘んじることでもない。それは、君たちの親が送ってきた人生であり、君たち引きこもりやNEETを大量に生み出した社会の悪しき復帰ではないのか。
2005.05.24.