直言曲言 第124回 「精神障害」
このホームページは2001年2月15日に開設された。『直言曲言』の第1回の掲載は2月6日付けになっている。ということは、今まで122回に渡って連載させていただいた『直言極言』はホームページ開設以前に執筆開始されていたのであり、私の≪道楽≫のような、この『直言曲言』こそ、ホームページ開設のモチーフになったのかもしれない。ホームページ開設のお世話になった初代管理人Iさんが去った今となっては、この謎はもう解明されないのかもしれない。
ところでこの123回目の『直言曲言』は、明らかに引きこもり問題をメインテーマにしてきたはずのシリーズ・エッセーとしては珍しく初めて『精神障害』というテーマを正面から捉えようと思う。と言っても、私が引きこもり支援活動を続けてきた中で『精神障害』の問題を避けてきたわけではない。2001年11月には8ヶ月余の期間に掲載した『直言曲言』約20篇と精神科医・宮地達夫氏とのメールのやり取りを素材にして『引きこもりは病気ではない』という書籍を著しており、そこでは引きこもりが『精神障害』であるのか、ないのかがメインテーマとして扱われている。
またその後も、精神障害の問題は折に触れて取り扱われており、特に2003年5月17日付けでは『引きこもりと精神障害』というテーマで、その時点での私の知見を披瀝させていただいている。それにも拘らず、私としては引きこもりと『精神障害』の関連については十分に論じてきたという『達成感』がない。
引きこもりの親や本人と接することを始めて、これは『精神障害』などではなく、ごく普通の子が『競争』のプレッシャーに抑えつけられたストレス症状に過ぎないと思った。ところが相談に来る親と言う親のほとんどが、わが子の『精神障害』を疑っており、多くは精神科医の門を叩いていて、それぞれになんだか訳の分からない診断名をつけられていて、またそのほとんどが精神安定剤の類の処方を受けていた。大人世代である親は、若者のやさしい感性が分からない。他人を押さえつけ、競争に競り勝って、何が何でもよい学校によい大学に、そしてよい会社に入らなければ幸せになれないと、信じて疑わない。そして、それを拒否して引きこもるわが子を精神障害者になったと思い込む。私は『それは違う』との叫びのように『引きこもりは病気(精神病)ではない』の本を出した。
この引きこもりからの脱出支援の活動は、私のような『社会病理』を問題にするいわゆる社会科学派と、臨床心理学による治癒を援用しようとするカウンセリング派が混在していた。カウンセリング派の方は、精神医学や精神分析学の隣接領域ないしはその補助領域的な認識を基礎においていたので、当時の分裂病(現在の『統合失調症』)に対しては、自分たち(カウンセラー)には手の出せない専門領域として敬遠するのが一般的であった。臨床心理学の方法論などを尊重しない私にしても、急性期・錯乱期の精神病(統合失調症)に対しては、『人間関係の再構築』と言った一般的な方法論だけでは対処しきれないのを知っていて、一歩距離を置いた対応を迫られていたのは仕方のないところであった。
問題は境界的な事例に対する対処の仕方である。境界とは、まさに精神病と神経症の境界をさし、精神医学上も『境界性人格障害』という規定がある。私は『引きこもりは病気ではない』と断言しているのだが、病気と病気ではないものの『境界』に対してはどのように対処すべきなのだろうか。カウンセラーの中には、このような『境界例』に対して積極的な関与をして、境界から引き離そうとする人もいれば、『境界例』は既に病気の範疇にあるものとして、精神科医に委ねようとする人がある。
『境界例(境界性人格障害)』の問題は、その状態像をますます拡大解釈して際限なく、病気の範疇に押しやっていこうとする傾向なのである。引きこもりの支援活動とは、こうした境界領域の人たちを、明確にこちら側の領域に取り戻す活動で、一部の人が誤解しているように、単に若者を甘やかせ、あそばせているかつどうではない。 境界例の人の心情には次のようなものがある。『自分の生き方がわからない』『自分のすべてを受け入れてもらいたいと望んでいる』『感情の移り変わりが早く人間関係が不安定』
こうした心情を持っているからと言っても精神病と決め付ける人はまさかいないだろう。しかし、彼らは幼児期や思春期の体験から、自分を『人生を生きるに値しない人間である』と考えたり、『周囲の人すべてから見捨てられている』と考えがちである。その恐怖感から行動が、ますます反社会的になったり、非融和的になる傾向がある。そのことで、社会の側が彼らを排除したり、特別視したりすることが、ますます引きこもりを増やすことになっている。
原因は極めて単純である。幼児期に母親が、自分への依存を誘導するために、幼児を見捨てる素振りを見せたり、実際にどこかに置き去りにしたりしていないだろうか?仮に、それらの行動が見せ掛けだけのもので、どこかの物陰で見守っていたのだとしても『見捨てられる』という恐怖のトラウマはしっかりと根付いている。思春期に過大な万能感を引きずっていた若者が、競争ゲームの中で無謀な挑戦をしたり、あるいはちょっとしたトラブルが引き金で敗北経験や多大な屈辱を味わったことはないか?こんなことは、人生の敗北などではなく、あるいはすべての人に見捨てられたことを意味しない。
失敗は何度でもやり直すチャンスが与えられること。大人になって、母親と言う名の哀しい性(さが)を理解すること。人は絶望的な孤立感の中でこそ、人への愛に目覚め、人と交わる中で、人との信頼を育てていくのだと言うこと。そのことに気づかせるための、人間的なつながりの中に招き入れていくことである。
精神医学とというものも哀しい性(さが)を持つ学問である。精神を病んだ人を癒すことを目的としているが、魔女狩りなどの『異端排除』をその淵源に持っている。『健全』だと(自分たちが)思える基準を境界にして、その境界をはみ出す人を『病人』として排除し、時には檻に幽閉する。自傷・他害や錯乱など差し迫った危険を排除する、最低限の社会防衛的措置は認めざるを得ない。しかし『境界領域』などの、神経症や様々な不安を抱える人々を、次々に精神病領域に押しやって『防衛』する『社会』とは何だろう。戦争や際限のない地球環境破壊、経済競争、生存競争、弱者抑圧を温存し、そこで傷つく人々に次々と精神障害の烙印を捺して、やがて残った人々だけの社会を『健全』と呼ぶのだろうか。
私たちは病に捉えられようとしている人々を慈しむ。彼らを、こちら側に取り戻し、持続可能なスローで豊かな社会を作りたい。
2005.04.20.