直言曲言 第112回 「コミュニケーション」
引きこもり問題の本質は何かということは、いったんさておいて、現実に引きこもりの若者がどんなことに悩んでいるのか、ということを考えてみよう。私が接して来た数百人の引きこもりの若者に聞いて見たら、それが『第一の』悩みかどうかは別として『コミュニケーションの問題』と考えている若者が圧倒的に多い。私が類推するに『自分が何を悩んでいるか』についてコミニュケート(伝達)することに非常な困難性を感じている若者が多いということである。私が思うには、今の若者にとって、引きこもりの心情とは、かつての若者の一般的な心情、思春期の悩み、例えば報われない恋愛の感情とか、人生いかに生きるべきかとか、ある程度の年齢に達した若者の共通の課題としての『どのような社会的役割を果たすことによって生きることの意味を問うていくべきか?』という極めて真面目な問いかけの結果なのである。
然るに(しかし)大人たち(親たち)の答えは『真面目に勉強しなさい、そうすればあなたは報われます。幸せになれます』そればかりである。そんなことは『信じられない』から<引きこもり>になるのである。だけど君たちの、同世代の、若者の約半分は大人たちの言うことを、そのまま信じてしまう素直で素朴な若者である。だから、あなた方ひきこもりの人たちは人間を、同世代の若者を信じられず『自分は特殊な存在であり、友達を理解できないし、友達にも理解されない』と考えてしまう。この『理解できない、理解されない』という感情がコミュニケーションの喪失、欠乏という感覚を生み出すらしい。
さて、引きこもっている間というものは、家族以外の人間に会っていないのだから、コミュニケーションの断絶は紛れも無い事実である。またそのうちの多くは、家族とのコミュニケーションも不全であり、断片的な言葉のやり取りしかしていないものも多い。 人間は『社会的動物』である。社会的に『孤立』して生きるというのは不自然である。
引きこもりからの脱出の欲求は自然に生まれてくる。長期間、脱出できないのは、たいていは家族が社会参加を強要し、対人関係の恐怖感を増幅したり、あるいは逆に『社会的孤立』している状態を温存し、何一つ『不自由』を感じないように『防御』しているからに過ぎない。それが可能な豊かな時代であるからである。
脱出欲求が高まった時期に、第三者の手助けや家族の後押しがあれば、案外簡単に外出や社会参加の試みが可能になる。この段階の人をわれわれは『第3種引きこもり』と呼んでいる。(2004.7.21『直言曲言・引きこもりの外にあるもの』参照)引きこもりからの脱出過程にあるのだが、就学も就職もできていないのだから『引きこもり』であることには違いが無く、『対人恐怖』も消えていず、『友人拒絶』は続いており、『人間不信』も根強い。しかし、脱・引きこもりの気持ちを強く持っていて、コミュニケーションへの欲求も強い。
この時期の引きこもりから、よく聴かれるのが『自分はコミュニケーション技術が低い』という言葉である。しかし、コミュニケーションとは果たして技術の問題であろうか?たしかに『コミュニケーション』には『意思伝達』という意味もある。しかし、本質的には『意思疎通(そつう)』という意が強く、『相互理解』によって互いに理解するという意味を、私は重視している。『相互』に『理解しあう』のは技術の問題ではない。
新聞やテレビなどのマス・メディアによる情報伝達のことをマス・コミュニケーションという。20世紀後半以降、マス・コミュニケーションの発達はめざましかった。映像を中心とするメディアの発達も著しく、その表現技術も多彩になった。本来のコミュニケーションという言葉の意味は、ほとんどこのマス・コミの魔力によって覆い尽くされ、人と人との日常的な意思疎通でさえ、マス・コミを通じて伝わってくる『テクニカル』な表現技術と比肩させられるようになっている。大阪の『吉本芸能』を中心とするお笑いタレントの影響も大きい。日常生活の中でも誰かが少しひょうきんなことを言えばすぐに『吉本へ行ったら』といった野次が飛ぶ。学校のクラスでも真面目な優等生タイプよりもひょうきんに周囲を笑わせるタイプが人気者である。
引きこもりになるのはほとんどが優等生タイプであるから、こうしたひょうきんで軽妙なギャグを飛ばしまくるタイプの人にコンプレックスを持ち、前述の『自分はコミュニケーション技術が低い』ということになる。誤解である。
コミュニケーションとは『相互理解』である以上、相手に理解させることであり、同時に相手を理解することである。こっけいな話やひょうきんな振る舞いをすることではない。むしろ相手の話に耳を傾け『聞き上手』に成ることが必要である。コミュニケーション能力の高い人は、たとえ相手が無言であっても、表情や顔色から相手の意思や感情を読み取ることができる。
もちろん言語能力や話し方の技術には、高い人と低い人はいる。しかし、そんな能力は習熟の問題である。悪いけれど、長く引きこもっていて、人と話をした経験の少ない人がいきなり、人と話して笑わせたり、感動させたりするのは無理である。ひき子もりから脱出して、人と交流していくのは良いが、吉本のタレントのように人を笑わせる必要があるのか?
『相互理解』や『意思疎通』は必要である。まず相手の話をよく聴く。そして、拙くても良い。早口である必要など無い。相手に理解してもらえるようにゆっくりと話す。『何を話せば良いか分からない?』それが問題だ。もし、話したいことが無ければ話さなくても良い。話したいことが無いのに、無理に話題を作って相手に話をしても伝わらないだろうから。『鍋の会』の案内に『話したくない人は、話さなくてもよろしい』と書いているのもそういう意味である。でも、コミュニケーションを求めているのなら、相手や周囲の人に理解されたいと思っているのだろう?それなら自分のことを話すべきである。
相手が初対面の人なら自己紹介をしなさい。誰も最初から『友達』であるはずなど無いのだから。でも、最初から深刻な『身の上話』をするのは余り感心しない。コミュニケーションの技術以前に自己表現の技術として感心できないからである。人は人を理解するときに、人の生い立ちや身分を理解するのではない。その人が今、何に関心を持ち、何をしたがっているかを理解することにより、自分との同一性や異質性を感じ取るのである。『友達』とは同一性を共有するばかりではない。ときには異質性こそ人を惹きつける。どんな自己紹介をすれば良いのか?それは自分で考えるべきである。
2005年1月7日