NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第145回 「人はなぜ働くのか?」 

By , 2005年12月12日 4:07 PM

人はなぜ働くのか?あるいはなぜ働かなければならないのか?引きこもりの大部分はNEETと同じで、NEETは「働かない」から問題なのだとしたら、この問題に答えられさえすれば引きこもりの問題は解決するのか? この問題は難しそうでいて、簡単に答えが見つかりそうだ。

「なぜ働くのか」

簡単な答え 1) 生きていくために
簡単な答え 2) お金のために
簡単な答え 3) 働いていないと退屈なために
<人生を生きていくためにはお金が必要だ。だからお金のために働く。>とすれば、答えの1)と2)は同じか?でも、親がお金持ちで生きていくのにお金を稼ぐことが必要でなければ働く必要はないのか?でも、他人は働いているのに、自分だけ働いていないと、ずい分退屈だし、格好悪いだろう。そうすると案外答は3)かもしれない。いずれも簡単だが、人生の真実というほどの答えではなさそうだ。『働く』というのは『人生』そのもののようだ。なのに『生きるため』を前提にした答えなどだめだ。『なぜ生きるのか?』を問わなければ答えにならない。

『なぜ生きるのか?』そんなことを問うてみたとて、答えが見つかるはずがない。おそらく『生まれてきたから』という堂々巡りの答えがかえってくるだけである。となると、『人はなぜ働くのか?』というような疑問は持たないほうがよいのかもしれない。いっそのことキリスト教のように『働く』ことを『原罪』だと位置づけ、だからこそ六日目と七日目を『安息日』として休日としたことを前提にした方が良いのかもしれない。

『神』のような絶対優位な存在があり、そこから『原罪』とその罰として労働が押し付けられているのなら悩まずにすむかもしれない。いずれにしても、人は労働をしなければ生きていく上での糧(かて)を得ることはできない。ただ、他の動物のように地を這いずるようにたべものを探したり、空腹のために他の動物を殺したりしたくない。労働が均しなみに人に与えられた義務だとすればできるだけ『付加価値』が高いほうがよいと思う。それが『洗練』された人の思いというものであろう。『付加価値』とは何だろうか?『労働』によって物の『価値』が上昇すること、その量が多いほうがよいと思えることだろう。

人間の歴史というものを考えてみよう。科学の発達にしても文明や文化の深まりにしても、人の営みと無縁なものは少ないだろう。人としてこの世に生を受けた以上、ただ単に生きて、死んでいくだけでなく、少しでも科学や歴史の発達に『付加価値』を残していこうとするのが普通ではなかろうか?いやそれを『普通』だとして君 に押し付けようというわけではない。ただ、それを『普通』と感じない以上君と私とはすでに考え方が違うのだから、この『人はなぜ働くのか?』と題する文章にも同意する必要はない。人は誰もが考え方に同意するとは限らないのだから。

さて、少しでも人生の傷跡を多く残したいと考えたら、行き当たりばったりの人生を送るよりは、少なくとも成人してからは何か専門の職業を持ったほうがよさそうだ。専門の職業という以上、人よりはそれについての知識も深く、技術も高いほうがよい。通常はその知識や技術を学ぶのは学校教育というものだ。しかし学校教育というもの、人類の歴史から比べるとわずかなものである。知識や技術を学ぶには一子父伝や徒弟制度という時代のほうが長かったのである。

学校教育というもの最初は知識の最低限レベルをあげるためのものであったはずである。やがて英才教育や受験戦争を経て画一教育の時代が始まる。画一教育とは教育を受ける人がすべて同じような知識や技術を学ぶわけであるから、専門の職業教育には向いていない。尤も今の学生に聞いてみれば就職とは『会社員』になったり『サラリーマン』になることで、決して専門の職業に就くことではないらしいから画一教育でよいらしい。言っておくがこれは皮肉であるからそれなりに受け取ってほしい。

『会社員』になったり『サラリーマン』になることには科学の発達や文明や文化の深まりに対して役割を果たそうという意味などないだろう。ただ平々凡々と生きて行けば良いのであってそのためのお金さえ稼げればよいのである。飛行機のパイロットになりたいとかパン屋の職人になりたいとか言うのは子ども(若者)の個性が現れるだろうが、会社員やサラリーマンになりたいとうのは、それがA社とB社の違いがあろうとたいした差ではないのではなかろうか?

A社が運輸会社でありB社が食品会社であろうと同じサラリーマンであるという点においては大きな差はないのである。毎日電卓の計算をしたりコンピューターを叩いたり、労働の質としては大きな差はない。してみると、結果として『サラリーマン志向の』現代は労働や仕事の種類に夢や幻想を持つべき時代ではないのかもしれない。

キリスト教徒のように労働(仕事)は原罪だと割り切って趣味や遊びの人生に生きればよいのかもしれない。食生活やファッションが洋風化してきたように思想的にも日本人はアメリカナイズされキリスト教徒に近くなったのか知らん?しかしそれにしては『引きこもり』とは、最初の人生選択としての『職業』選択に迷い人生の道を見失ったと聞く。ずいぶんと日本的な迷いの道に踏み込んだものである。やはり日本人としての尾てい骨や遺伝子は受け継いでいるのであろう。

資本主義をキリスト教徒のように近代的な経済思想として受け入れていない以上、仏教徒にとって『労働』は何らかの形で『自然』を加工する行為であり、『神』に仇なす行為である。『神』に仇なす行為である以上『神』が罰として与えるはずはない。それは『人間』が神と敵対しても遣り通そうと思う行為であり『人間的な営み』なのである。働くこと、職業生活が『人間的な営み』である以上神以上に、あるいは神に伍して創造的な作業でなければならない。

近年、神様の手口が分かってきた人間たちは、神様を真似て『生命』を創り出そうとしたり、何でもコピーを取ろうとしたり、大量生産の手口を覚えてきた。だから、一つ一つ手作りで作ったりという本来の職人技というようなものを忘れてきた。コピー機で大量生産するのであれば、誰が作っても同じであり、わざわざ職人が精魂を込めて作ったりする必要がない。画一教育を受けたサラリーマン候補生で十分である。

引きこもりとは結果的に画一的教育を拒否したり、サラリーマンや公務員になる道を閉ざされた人間である。残念ながら後期近代社会において量産されるであろう人間のプロトタイプからは脱落している。良いではないか?そんな神様を真似て作り出す量産品のプロトタイプになどならなくても。その代わり、人間が有史以来続けてきたものづくりの職人になれば。何も原始に帰ってすべて手作りの世界に戻れと言っているわけではない。これだけ大量生産化が進んでいる世界である。せめてサービス業の世界など、手作りを大事にした自営業が成立する余地があるのではないか。そうすれば、画一的教育としての大学など出ている必要はないし、十分に人間観察などして、ゆっくりと仕事に就くことにしても遅くはないはずである。

2005.12.12.

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