NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第109回 「スローワーク」

By , 2004年11月11日 12:29 PM

2004年を迎えてからのこの1年間、私たちニュースタート事務局関西の活動の重点は『若者たちの社会参加』つまり『就労問題』におかれてきた。私たちが活動を開始した1998年から昨年までの5年間はほとんど、引きこもりの若者を家庭から引っ張り出し、友達を作れるように人間関係に慣れさせることに力を注いできた。もちろんそのことの重要性は今も変わらないのだけれど、それ以上に重要な課題が見えてきたのである。
自宅に引きこもって、家族以外の人と交流しないことは大事な克服課題であるが、完全引きこもり(第1種)にしても家族依存型引きこもり(第2種)にしても訪問支援や共同生活寮などの方法によって脱出支援のできるめどは早くからついていた。問題は引きこもり状態から脱出してきた第3種の人が、なかなか社会参加できないことである。社会参加とは、若年者(15~20代前半)においては就学の持続であり、あるいは成年に達した人においては就労の問題である。
引きこもり問題の本質はこの就労(職業選択)問題であることは早くから(直言曲言『20代無職について』2001年2月他)指摘してきた。しかし、私たちのもとに相談に見える親たちの願望はひたすら『わが子が(サラリーマンであれ、公務員であれ)安定した勤め人になってくれる』ことであった。日本が産業空洞化に陥り、求人需要が激減している現在、そのような願望こそが引きこもり当人に大きなプレッシャーを与え、トラウマを引きずらせることになると考えた私たちは、就職プレッシャーを排除するためにも『フリーターでも良いじゃないか』と提言していた。
だが多くの元・引きこもりたちはフリーター(不安定就労者)として必死に社会参加して、働いているにも限らず、親たちからは依然として『一人前でない』者として侮蔑され、憐れみを受け、何よりも辛いことに心配されているのである。そもそも若者たちが夢を持ちながら学生生活をすごし、希望をもって社会人になれないような社会を作ったのは親たち(大人たち)の社会であり、企業社会の終焉が倒産やリストラや年金財政の破綻の上に、フリーターとしてしか働けないような社会を作ったのである。
それは就職できない社会であるだけでなく、生き残りを賭けたサバイバル社会であり、人と人とが生存を賭けて他人を出し抜き、裏切り、騙しあう競争社会であり、若者たちに人間不信や対人恐怖や友人からの孤立を余儀なくさせてきた社会である。  20世紀の後半、われわれは高度経済成長の波に乗ってがむしゃらに働き続けた。会社人間、企業戦士、社畜、ワーカーホリック、エコノミックアニマル…さまざまな蔑称を浴びながら経済的な豊かさを得る競走から脱落するまいと必死に働き続けた。朝7時に出勤し、夜は11時に退社するので『セブン・イレブン』と噂されていることを誇りに思っていた人がいた。休日出勤・サービス残業は当たり前、有給休暇をとることなど思いもよらず『俺はこの半年間1日も会社を休んだことがない』と豪語していた人が過労死で倒れた。ハードワークはそんな時代の常識であった。その果てに、中高年リストラで仕事さえ取り上げられ、無聊を囲っている。
若者たちは、父親たちのそんな働き方に脅え、企業社会に恐怖を感じている。そんな経済優先のハードワークを拒絶して、スローワークの旗の下に集まるかと思えば、引きこもりはそれほど単純ではない。それはある意味で『教育の賜物』であるのか、父親たちの生きてきたサラリーマン人生こそ人の生きる道と信じ込まされているのである。親たちは、企業やお役所に忠誠を誓い、終身雇用制を信じて、身を粉にして働き、その上倒産や合併の犠牲としてリストラされても、自分たちの生きてきた方法を、唯一の生き方として子どもたちに押し付けようとしているのである。
『スローワーク』(ゆっくり働こう、あるいはそんな働き方)と言っても、具体的にどんな働き方をすれば良いのか見当のつかない人は多い。昔からある日本語で言えば『晴耕雨読』というのもその一つの見本かも知れない。少なくとも上に示したようなハードワークではないということは確かだ。高度経済成長期のハードワークが日本を有数の富裕国に押し上げたと同時に、資源問題、廃棄物問題、地球環境問題などさまざまな深刻な問題を残した。抽象的だが地球にやさしい働き方と言ってよいかも知れない。少なくとも人間らしい働き方であり、過労死を招くような働き方とは対極にあるだろう。
しかし『スローワーク』を語ろうとすると、引きこもり青年の中から必ず出てくる質問がある。  『資本主義の競争社会の中にいて、ゆっくり働いていたら勝ち残れないのではないか?』

もっともな疑問ではあるのだが、彼らのいう『勝ち残る』こととは何をさしているのだろう?世界で60億人の人の頂点に立とうとしているのだろうか?あるいは日本で1番、この町で1番、中学で1番、高校で1番、会社で1番、小さな集まりでも1番?実際にはそんな争いをしていなくても、常に1番にならなければいけないと言うような、競争イデオロギーのようなものが頭にこびりついているのである。
彼らの頭の中には、学校で学んできた『数量的比較』という近代科学の方法が絶対真理のごとく君臨している。数量化と競争意識が頭から離れない。資本金1億円の会社と1千万円の会社では勝ち負けは明白だと考えている。1万人の人が10万円ずつ出資すれば10億円になるがそれではどうだろう。10人なら全員が取締役になれるだろうが、1万人では会社が経営できないと考えている。つまり少なくとも自分はトップ10に入っていなければならないと考えているからだ。
1日に10時間休みなく働く人たちの集団と、1日に5時間しか働かないであとの5時間は遊びや休憩や物思いにふけっている人たちがいると必ず前者が後者との競争に勝つと考えている。『勝つ』というのは何を意味しているのだろうか?同じものをより多く作るという意味なら、その通りだろう。作られた物が、無条件に無限に売れ続けることを前提にした妄想ではないか?生産性や効率至上主義に陥るべきではないが、1日10時間同じ仕事をする人は、5時間しか働かない人と同じ生産性を維持できるだろうか?10時間働くと言うことは残業手当としての割増賃金を受け取れる。生産性や効率は、人間の労働の評価ではなく資本の効率を意味するが、残業コストは資本にとっても効率性を逓減させるのではないか?ハードワークとしての長時間労働は、人々の健康を損ない、医療費の増大や社会全体のコストを高めて行くのではないか?
長時間労働は、労働の独占と失業者の増大をもたらし、失業手当の社会的負担や、社会不安の増大、貧富の格差を生み出してきた。少なくとも前に述べたような『高度経済成長』の時代の企業戦士の労働が、現在の『社会的引きこもり(NEET)』や『フリーター』などの新階層を生み出してきたのではないか。
スローワークとは過剰な生産性を追及してきた結果、深刻なデフレーション(物の価値の下落)を生み出してきた社会への反省であり、大量生産(競争の無原則な容認)と大量販売(大型量販店)の放縦な跋扈を許した時代のやり直しではないか。さしあたり、大規模工場に変わる手づくり型工房による『ものづくり』、大型スーパーの倒産、合併などの隙間を埋める小売商業の再生ではないか?別の言葉で言えば、大資本に依存しない『自営業』の見直しであり、就職ではない『仕事起こし』である。

2004.11.11.

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