NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第106回 「自立への道」

By , 2004年9月29日 12:16 PM

引きこもりからの脱出を図る上で、明確な原理が一つある。それは親の力を『利用』しなければならないことである。

引きこもる若者は100%と言ってよいほど親に『経済的』『日常的』『精神的』に依存している。こういえば、必ず反発、反論したくなる引きこもりの若者がいることも知っている。しかし『引きこもり』の定義や本質を考えれば明瞭である。親の家や親の負担によって借りたアパートなどに引きこもっているのであるから、『経済的』に依存しているのは明白である。

『日常的』依存とは、食事や洗濯といった日常生活をほとんど親の手によって賄っていることである。この点については次のような反論がありうる。「自分は確かに引きこもってはいるが、家族のために食事を作ったり、家の掃除など家事を分担しているから、日常生活においては親に依存していない。」これは女性だけでなく、男性の引きこもりにも散見されるケースである。しかし、これは引きこもりを免罪し、正当化するための自己弁護に過ぎない。例えば、料理をしていると言っても、買い物には行けず、親に委ねている。三食を作るわけでもなく、気が向いたときに料理するに過ぎない。もちろん、料理素材も光熱費もすべて親の負担である。要するに引きこもっていてすることがないから、自己正当化と暇つぶしのために家事をさせてもらっているだけである。

『精神的』な依存の問題は、本人にはさらに分かりにくい。素直に精神的依存を認めてしまうのも問題である。甘えの構造となり、自立意欲が湧いていない証拠である。しかし、多くの引きこもる若者は、内実精神的に依存しているのに、他方で身近で現実的な他者存在である親に対して反発し、中には自分が引きこもっているのは『親のせい』であると責任転嫁しているものも多い。つまり親の自分に対する『教育が間違っていたから』引きこもりにさせられたのであると考えている。

『親の教育』のせいに転嫁するのは本末転倒である。確かに行き過ぎた『上昇志向』を植えつけたことや、『人間不信』を煽るような育て方をしてしまった責任はあるだろう。しかし、それは親自身がその一員である『競争社会』の構造的な欠陥であり、親の責任に帰することは出来ない。教育の問題を言うなら、義務教育の期間は別として、それ以後の長い人生は自己教育の問題として、自分自身が責任を取るべきであろう。

ともあれ、『引きこもる』ということはこのように親に全面的に依存して続けているという状態である。

人間は他の動物に比べて、非常に未熟なままこの世に生を受ける。親の養育なしでは生存し続けることは出来ない。人間は社会的動物であるから、ある程度肉体が成長しても自分で食物を得たり、一人で生きていくが出来ない。社会生活に参加していくための教育が必要である。生存し続けるための基本的な知識や技術の教育は15歳程度までに終了する。それを義務教育という。高等学校に進学することや、大学に行くことは中学卒業段階で社会参加(就労)することを延期し、より高度な知識や技術を学んで、より高度に社会適応して行こうとする選択的自己教育である。もちろん、本人の意思が尊重されるべきではあるが、今の社会ではほとんどの親が、義務教育ではない『高等教育』を受けさせようとする。

引きこもりは、ほとんどがこの『15歳』の選択を前後して発生している。つまり、肉体的・精神的にも『子ども時代』を終え、思春期を迎える青年として、親からの自立を目指す時期なのであるが、社会的な慣習としての高校進学や、さらにその上を目指したい、親や若者自身の『上昇志向』の暗黙の共謀によって、自立は延期され教育を受け続けることが選択される。そのこと自体が、直接的に『引きこもり』につながるわけではないが、高等教育の果てに見えてくるものがないから、この済んでしまった『選択』に『?』が付いてしまうのである。

高等教育が害悪であるとか、不要であるといっているのではない。少なくとも、15歳の自立を目指すべき時期に、自分の生きざまを、自分で選択するための思考上の『通過儀礼(イニシェーション)』が必要だったのではないか?ここを無自覚に親や社会が決めた(と思い込んだ)ままに、通過してしまい、それはまるでマラソンコースの途中で誰かの指示でコースを選んだのだが、しばらく走っているとコースを見失ってしまい、茫然と立ち尽くすさまに似ている 。

コースを間違ったのなら、棄権しても良いし、元の地点まで戻ったらよいのだが、プライドの過剰な上昇志向一本槍だった青年は、疲労困憊し、錯乱し、一歩も歩けなくなってしまう。引きこもりの若者が、しばしばさまざまな神経症に陥り、人間不信を昂じさせ、思考能力を失ったかに見えるのは、こんな状態である。

ところで、マラソンを走り続けるためには、結局は自分自身を勇気付けて、自分で走り続けることを再開するしかない。親を恨んでも、走路指導員(教師?)を恨んでも仕方がない。しかし、引きこもりからの脱出は、そう簡単にはいかない。『経済的』『日常的』『精神的』に親に依存しているのである。自分自身の力で走っていると思ったのは錯覚で、親の背中に隠れているばかりで、社会参加せずに、つまりレースにもエントリーしないで、仮想現実のようなイメージトレーニングをしていたに過ぎない。

現実の社会参加とは、まず人と交わり、コミュニケーションや友達関係を大事にしながら、一歩ずつ歩みだして行くことである。しかし、引きこもっている現在は、親に依存して、親以外の他人との接点すらない。一歩を踏み出す勇気がないから、親に反発して見せたり、障害があるかのように振舞ったりするだけである。これでは引きこもり脱出のきっかけさえつかめない。 引きこもり状態から抜け出してきた人には二種類ある。

一つはネット上の情報を自ら探り当て、掲示板でのコミュニケーションやメールでいわゆるメル友を作る、そこからオフ会(オンラインではない現実の出会いの場)などを経て、ニュースタート事務局などの支援団体の活動にたどり着く例である。ニュースタート事務局が応援している若者の約半数は、このように自律的に脱出を実現している。

ネット上での情報検索はするのだが、あるいは掲示板などにハンドルネーム(仮名、ネット上のペンネーム)による書き込みはするが、あくまでも匿名性にこだわり、オフ会などには参加できない人は多い。パソコンは持っていても、ゲームばかりでインターネットにはあまり近づかない。あらゆる情報に耳をふさぎ、ひたすら引きこもり状態を続ける人もいる。こんな人は親の力を『利用』するしかない。親がきっかけを与えて、脱出の扉を開ける。これがもう一つのパターンである。

親が引きこもりに対してどれほどの理解を示しているかなど関係がない。おそらく親も、どうしてあげたら、問題が解決するのかお分かりになっていないだろう。とにかく、引きこもりは親に依存しており、それは引きこもりの若者にとって、社会との通行を閉ざす扉のような存在である。通行を閉ざしているのが扉なら、通行を可能にするのも扉なのである。親自身が扉を開いて、次の扉を叩いてみることである。

2004.9.29.

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