直言曲言 第87回「規範への迎合」
いつの社会にも『社会規範』というものはある.教育の役目は,次代の若者達をその規範に当てはめて,社会が期待する『人間像』として形作ろうとするものである.戦前の軍国主義時代には,軍国教育がなされ,多くの軍国少年が生み出された.もちろん,戦後には軍国主義教育は否定され,いわゆる民主主義教育に塗り替えられた.契機は『敗戦』であり,ある人には軍国主義からの『解放』であり,最近とみにかまびすしくなっている『改憲』論者などから見れば,占領軍による押し付け民主主義の結果かも知れない.
いずれにしろ,時代を俯瞰〔ふかん〕する視点を持てば,社会の主要な価値観が100%転換してしまうことなど珍しくなく,同時にそれは『社会規範』が知らないうちに逆方向を向いてしまっている,ということもありうるのである.
敗戦の焼け跡から立ち上がった日本経済は,朝鮮特需による復興を経て,やがて高度成長の歩みを始める.資源小国である日本は,民族的特性ともいえる勤勉主義を活かして工業国家として経済大国の地位を築き上げていく.
50年間のこの繁栄を築いたのは,民主主義を基盤とした人材教育であろう.95%の高校進学率,50%に及ぶ大学進学率はその輝かしい成果である.即ち,その『社会規範』とは『学校教育』を受けることであり,『優等生として社会貢献する』ことである.『真面目さ』とは,教えられた『規範』に疑問を持たず,ひたすら精進することを指す.半世紀を経て『軍人』になることも,優れた『企業人』になることも,自分を規範に嵌〔は〕めるという点では同じだったのかもしれない.
1945年の転機は,敗戦というドラスティック(根本的,過激)な変化によって,否応なく訪れた.軍備を放棄し,政治体制が転換し,人々の生き様や思想も変わらざるを得なかった.
それから59年の年月が流れた.60年近い年月の間,社会的なパラダイムが不変であるはずがない.『贅沢は敵だ』といわれていたのが『消費は美徳なり』に変わった.さらに『地球環境』の問題が指摘され,省資源やリサイクル,省エネルギーが奨励され,今また景気刺激のための国内消費が奨励されつつある.『モノ』の消費の仕方一つとっても社会の支配的な見方はめまぐるしく変わっている.俯瞰的視点を持てば,人間社会の『規範』などたやすく変化しているのは見て取れる.
しかし『規範』というものは,時に『法律』や『条令』という形をとることもあれば,『道徳』や『倫理』として流布することもある.人が作ったり,制定することもあるが,社会的慣習として,知らず知らずのうちに広まっていることも多い.ひとりひとりの個人は『規範』の変化に関わっているのではないので,無意識のうちにそれを強いられ,それに従わせられているのである.多くの場合支配的な『規範』に対して『不平』を言うでもなく,『疑問』を感じるのでもなく,それに従っているのである.
それでは『規範』というものは何故『変化』するのであろうか?それは『社会』がある種のシステムによって動いているからである.『生態系』という言葉がある.これも一種のシステムである.『食物連鎖』これも『生態系』の一部であり,システムの一種である.植物があり,草食動物がこれを食べる,肉食動物が草食動物を食用とし,肉食動物の死体をはげたかなどの鳥類が始末し,あるいは微生物が分解する,その微生物が植物を育てる.
すべての『食物連鎖』の頂点に立っているのは人間である.人間は社会を構成し,経済システムがこれを動かしている.需給変動は経済システムの根幹である.供給が過剰になれば『消費は美徳』になり,『供給不足』になれば『贅沢は敵』になる.人間の労働もまたこうした需給法則から逃れることは出来ない.
高度経済成長期には労働力は慢性的な不足状態にあった.最初は単純なものづくりの時代であった.昭和30年代頃は中卒労働力が『金の卵』として持てはやされ,農村部から大都市に『就職列車』が走った.やがて工業化が進み,社会も安定して進学率も高まり,求人の中心は高卒者に移った.昭和40年代に入ると,機械化(オートメーション)が進み,単純労働力よりも高度な技術者や管理能力が要求されるようになった.大卒求人が激増する時代になった.
今の若者達の親は概〔おおむ〕ねこの時期に青春期を過ごしている.本人が大卒であろうと,高卒であろうと,より高い『生涯賃金』(つまりは経済的な豊かさ)を求めようとすれば『大学進学を目指す』のが『常識』の時代であった.
子どもの幸福を願うなら,親は子に『大学』に進めるような勉学環境を整えてやる.子もまた,親の期待に沿うためには真面目に勉強して,よりよい大学に入れるように精進する.かくして『学歴主義』の『規範』が出来上がった.大学進学率50%という奇形的な学歴,労働力構成の社会はこうして出来た.
さらに,昭和50年代に入るとサービス経済化や情報産業化が進み,日本の一人当たりGDP(生産力)は世界一に達した.日本人の賃金は,世界でも最高水準に達し,他国とりわけアジア各国との賃金格差は10倍以上にもなった.グローバル経済化が同時進行し,資本の自由化や東西冷戦終結の結果として,企業は国境を超えて生産現場(工場)を移転できるようになった.日本の企業が,中国を初めとするアジア各地に生産拠点を移して,そこで生産した工業製品を日本を含む世界各国に販売するシステムを確立した.やがて,その国は自前の技術と資本を蓄積し,日本に対抗できる生産力を整えた.1990年以降,現在に続く不況と失業時代はこのようにもたらされた.
時代が変化したのである.世界の産業システムも変化している.日本だけが『わが世の春』を謳歌〔おうか〕した時代は通り過ぎたのである.『慢性労働力不足』の時代は過ぎ,むしろ慢性的に失業者があふれ,リストラが横行する時代になった.大学卒を大量生産しなければならない時代も過去のものになった.
つまり『規範』は過去のものになった.ただし『規範』とは『社会的規範』であり,個人の『生き様』を指すものではない.そもそも大学とは学問をするための場であり,産業の求人需要に応えるための場ではなかった?はずである.いつの間にか,大学は就職予備校と化し,より高い『生涯賃金』を得るための手段と化していたのである.だから就職が困難になっても,大学を目指すことが無価値だとはいえない.
しかし,ただ単に『真面目』であるだけで,従来の『規範』を信じてきた若者には気の毒な時代がやって来た.今の社会や産業,個々の企業の実態,それどころか失業したり,リストラにあったりした父親や身内の姿を見れば,大学進学やその後の職業生活に夢などもてるはずがない.ある意味で『受験競争』に夢を托せるはずもなく,『競争から降りてしまう』のも当然である.中学の不登校,高校の中退がそれぞれ毎年10万人を越えているのはこうした社会背景を持つ.
もう一つ『真面目』な一群がある.『競争から降りてしまおう』としているのは共通なのだが,もともと学習能力が高くプライドの高い若者達は『競争から降りよう』としている自分自身が『許せない』ために悩み,自己否定=自罰に向う.これが『社会的引きこもり』である.しかし,私は『引きこもる』ことを経て,新しい時代のパラダイム,生き方を見つけるなら,彼らは行き詰まってしまった日本社会を再生させるための原動力となると信じている.
難しいのは,彼らの中で,時代を俯瞰することが出来ず,自分を単なる『脱落者』と位置づけ,過去の『規範』へのノスタルジーの中に回帰させ,親たちの,古い社会の規範に迎合してしまおうとする人たちがいることである.
(1月15日)