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直言曲言 第95回 「傷つきやすい私」

By , 2004年4月20日 4:29 PM

人の心は傷つきやすい.まして心やさしくナイーブな引きこもりたちの心はとても傷つきやすい.
インターネット上には『癒し系』とか『ココロ系』とか呼ばれるホームページが多数ある.私はそうしたホームページの幾つかの愛読者であり,定期的にその掲示板や投稿欄に目を通している.投稿欄には「私は傷つきやすい人間で…」のような書き込みがしばしば見られる.たいていは,心ない人の言葉に傷つけられた自分の体験談が書いてある.すると,すぐにレスポンスがあり『自分も同じような体験をして傷ついた』というような共感と同情の書き込みが続く.かつて私は,これを『癒しの文法』と呼び,慰めあい,助け合おうとする相互セラピーの手法として一定の評価をしている.
しかし,時々首をかしげたくなるような場面にも遭遇する.最初に「私は傷つきやすい」と書き込んだ人に対して,『共感と同情』ではなく『叱責とお説教』のようなレスポンスがあったとする.たとえば「あなたはあまりにも自分本位で,相手の人の辛〔しん〕らつな批評の裏に隠された友情を理解できていないのではないか」というような書き込みである.実際,多くのホームページではこのようなやり取りも目にすることが多い.すると最初の書き込み者は突然柳眉〔りゅうび〕を逆立てて反撃し,レスポンスした人に対し,その人がいかに無智で,人の心を理解せず,人でなしであるかということを書き立てて,自分がどれほど傷ついているかを力説するのである.
こうしたやり取りを見ていると,最初の『傷つきやすい』と自称した人は,実は大変『人を傷つけやすい』人ではなかったのかと思うのである.
ドラえもんの漫画で,のび太は普通の少年であり,喧嘩をするにも単細胞であり,すぐに殴り合いの喧嘩をしてしまう.これに対しスネ夫はなかなかの知恵者であり,自分からは加害者にならず,のび太に殴らせてから,被害者としての自分をアピールし,ジァイアンの加勢を求める.
私は悪い癖だが,ドラえもん漫画を見ているとすぐに世相の反映として見てしまう.のび太が加害者でスネ夫が被害者だとすれば,ジァイアンは警察か検事の役割.しかし,のび太側にもしずかちゃんという弁護士がいる.そして究極の正義としてのドラえもんはこのストーリーの裁判長だろうか.
最近の世相では,犯罪被害者支援の会などが盛んにおこなわれていて,加害者側は孤立無援のようである.昔は冤罪〔えんざい〕事件も多く,人権派弁護士が活躍し,死刑廃止なども議論されたが,最近は凶悪事件が多いせいか死刑判決が出ると,拍手喝さいが起こるような世相である.
犯罪被害者はもちろん気の毒なのであるが,通り魔殺人などを除くと,犯罪には加害者と被害者の人間関係があり『犯情』というものがある.特に喧嘩などの場合には,喧嘩になった経緯を考慮せずに,結果としての加害者と被害者の区分を前提に裁いてはいけない.被害者は気の毒であるとしても,被害者に共通する『被害者意識』というものをそのまま信じ,被害者の言い分だけを聞いてよいものだろうか.被害を受けた結果としての被害感情は尊重するとしても,そもそもその『被害者意識』なるものが『被害妄想』を起点にしているとしたらどうなるか?
引きこもりのきっかけとして『いじめ』を上げる人は多い.私は,多くの引きこもりは『社会病理』の反映であると考えている.ところが『社会病理』はある意味で鋭い『社会批判』の上に出てくる考え方であり,しかも多くの場合抽象的であり,犯人像は見えにくい.いじめは具体的な行為であり,犯人像も鮮明である.確かにいじめは存在する.
しかし,いじめを声高〔こわだか〕に訴えるのはたいていが過去の出来事であり,10年も引きこもっていた人が,10年前のいじめを原因と考えるのはいかにも不合理で,こじつけである.しかも,この『いじめ』なるもの,多くの場合,集団からの孤立による『被害者意識』が生み出した集団からの疎外感情の産物である.私は目の前にある『いじめ』は被害者を守る側に立ちたいが,何年も前の『いじめ体験』はそのようなものでしかないと考える.冒頭の『傷つきやすい』人とは『いじめられやすい』人のことであり,『被害妄想』であるゆえに,その『妄想』の点を指摘されるや,急に反撃する側に立ち,結果として『傷つける』人となる.

『傷つきやすい』と自認している人には,大変厳しい意見となるが,多くの引きこもり事例を見てきた私としては,このことは指摘しておかざるを得ない.
何度も言うようだが引きこもりは『社会病理』の反映である.その意味で引きこもりはある種の『社会システム』の被害者である.問題を解決するためには『社会改革』が必要である.あるいは,『社会病理』という一種のいじめから隔離して,引きこもり(被害者)を癒し,たくましく再生させる必要がある.しかし,多くの引きこもりには『社会病理』という抽象的な『敵』が見えないから,代替物としての『仮想敵』を作ろうとする.これが昔のいじめられた相手であったり,不合格にされた学校であったり,叱責を受けた先生になったりする.時には自分を育ててくれた親であり,その『育て方』になったりもする.いわく『親の育て方が悪かったから,自分は引きこもりになった』
自分が引きこもりなった,そして今も引きこもっている.しかし,身近なところにはその『仮想敵』さえ見つからない人もいる.いじめられた記憶もない.学校からも先生からも期待はされていても悪意も中傷も受けたことがない.親からの虐待も,強制も感じていない.むしろ,両親は唯一信じることの出来る人間であり,今も自分の引きこもり脱出を心から願ってくれている.  こうなると,他人が悪いから引きこもりになったという自己正当化が出来ない.対人恐怖や人間不信,友人拒絶などの引きこもり特有の神経症はあるが,これは他人が悪いとは思えない.憎悪の対象は自分自身に向かわざるを得ない.自己不信であり,劣等感であり,自己否定となる.『生きている価値がない』となる.引きこもり特有の感情経路である.
ところで引きこもりそのものは100万人を超えるという.ざらにいるのである.自殺を考える人は多いが,自殺を実行するほどの追い詰められた『絶望』ではない.リストカットを試す人は多い.しかも二の腕にかけて十数回のリストカット歴の傷を持つ人もいる.他の方法は試さない.血だらけの腕を見て,親は驚愕し,子どもの絶望の深さを知る.しかし本人は絶望していず,親の驚愕で報われる.結局,死ねないのである.
実際に彼らは絶望などしていない.ホームページに『絶望』している『私』について書き込み『傷つきやすい』自分をアピールしているのがその証拠である.同情と共感,同類たちの集まってくるのを待っている.しかし,少しでも敵意を感じたら猛獣のように反撃し,敵を傷つける.これは,彼らが生き物としての健全性を維持している証拠だろうと考えている.しかし,常に『被害者』を装わなければ生きてはいけない.絶滅寸前種か動物園の檻に入れられた猛獣のように,彼らは悲しい目をしている.

(4月20日)

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