直言曲言 第75回 「只の人であること」
『引きこもり』は精神病ほど難しくも,複雑でもない.私はもちろん精神医学の専門家ではないので精神病については分からないが,少なくとも統合失調症(旧名:精神分裂病)について発病のメカニズムや治療法が解明されたとは聞いていない.薬物による症状の緩和や患者の隔離による沈静化などが主な対応方法で,つまりは対症療法しか行われていない.寛快〔かんかい〕期における作業療法や集団療法は,引きこもりやその他の社会的不適応の人に対する手法と変わらない.要するに精神病を医学的に治癒させることの出来る精神科医はいないと理解している.
『引きこもり』も最初は精神病の一種と誤解されていたし,今でもそのようにしか理解していない人も多数いる.しかし,引きこもりの若者を多数見ていると,その表面的なきっかけは多様なようでいても,そのすべてに共通する<症状>があり,その背景には現代社会の青年たちが,引きこもりであろうとなかろうと,共通して受けている『社会環境』によるストレスがあることに気付く.引きこもりに<なるか,ならないか>はそうした『社会環境』ストレスに敏感に反応する因子〔いんし〕を個人的に内包しているかいないかであり,それは個人的な性格であると同時に,育てられた家庭環境の因子でもある.
しかし,誤解してはいけないのはその個人的な因子や家庭環境の因子が『病的』なものや,それ自体が間違ったものであるのではないことである.例えばかつて結核が流行している頃に,結核菌に免疫のない人にはBCG接種というのを行い,免疫をつけさせた.元々結核菌に免疫がないのは,病的なものでもなんでもなく,社会に病原体が蔓延〔まんえん〕しているので,仕方なく人工的に菌を感染させたのである.
戦後の一時期は,結核菌に限らずさまざまな伝染性の病原体が蔓延〔はびこ〕り,多くの人々が伝染病で亡くなった.腸チフス,パラチフス,赤痢,疫痢,コレラ,ジフテリア,天然痘,日本脳炎….栄養状態が良くなくて,衛生状態も最悪.日本はこうした疫病で滅びるのではないかと恐怖したのも,あながち大げさではない.これを一時的にも救ったのは予防接種法の制定なのだが,その後栄養の改善や上下水道の整備などで,乳幼児の死亡率が劇的に改善され,世界で最長寿の国に成る礎〔いしずえ〕を作った.
引きこもりは,死にいたる病ではないし,予防接種で防げるものでもない.しかし,社会病理の反映としての引きこもりを生み出す条件は,当時の社会公衆衛生の課題同様に,日本を滅ぼしかねない.生命そのものではなく,社会的活力として社会の生命を奪い取ろうとしている.
引きこもりも,本人や家庭に問題があるのではなく,社会の方が病んでいるのである.この引きこもり免疫のない人や家庭環境について考えてみる.
私は引きこもりになりやすい人の特性を『引きこもり構造図』(『論叢』社会的引きこもりと脱出への構造」参照)の中で『真面目,優しさ,親に従順,高い学習能力,プライドが高い,上昇志向,人間体験・労働体験・社会体験の不足』と整理している.
別に『真面目』などと持ち上げて,本人を励ましているつもりではない.真面目で『融通が利〔き〕かない』という側面もある.『プライドが高い』というのも『勝ち負けにこだわる』性格や『頑固』な一面をも指しているのである.こうした側面は先天的なものもあるだろうし,家庭の,特に教育環境によっても形成されやすいものでもある.親が教育熱心で,学校の成績に関心が強すぎると,親の期待に応〔こた〕えようとして,真面目になるし,その成績を維持しようとしてプライドが形成される.それ自体は,本人が悪いのでもなければ,親の責任でもない.ただ『競争社会』の『学歴至上主義』が歪〔ゆが〕んだ孤立や,勝ち負けにこだわる排他的な性格を形成してしまう.
引きこもりに成りやすい性格としての『プライドの高さ』を説明すると,『プライドが高いのがなぜいけない!』と反発する人がいる.別にプライドが高いのがいけないなどと言ってはいない.ただ,こんな方は『貧しくても誇りを持って生きる』などという場合の『誇り』と『プライド』というのは別物だということを理解しておられない.前者は,人間として生きる場合の『基本的人権』と言ってもよく,貧しくても,学歴がなくても,障害を持っていても,人間として生きとし生けるものすべてに授けられたものである.『プライド』の方は西洋では騎士としてのプライド,貴族のプライド,日本では武士の誇りなどのように『選良(エリート)』としての自負を指す.
このプライドが<不正>に与〔くみ〕しない,などのように良いモチベーションとして働けば良いのだが,昨今〔さっこん〕のように勝ち負けにこだわる世の中では,<負けること>を潔〔いさぎよ〕しとせず,負ける戦(いくさ)からはさっさと降りてしまう口実にされている.日本では,『プライド』という言葉を余り悪い意味で使った経験が少ないので,プライドが否定的な意味を含む言葉として用いられると,オートマティックに<反発>してしまうのである.
ところで,このプライドの高い若者だが,もともとの資質もあり,選良としての道を歩み始めるのだが,どこかで躓いてしまう.躓かないとしても,競争の道の厳しさに目が眩む.プライドを傷つけられて,競争から降りてしまう.これが不登校や引きこもりのはじめである.人間性を捨てさせてまで他人との勝ち負けを競わせる競争社会なのだから,競争から降りること自体は悪いことではない.ただ,競争から降りて,平々凡々の道を行けばよいのだが,そうは行かないのが『プライドの高い引きこもり』の真骨頂といえる振る舞いの滑稽さと,悲惨なのである.学歴競争には敗北するか,降りてしまうのだが,プライドの高さが『只の人』であることを自らに許さない.
このプライドの高さを持続するのも,実は良いことなのだが,悲しいかなこのプライドは往々〔おうおう〕にして親や社会から押し付けられた『借り物』のプライドで,自らのものとして貫徹〔かんてつ〕するほどは身についていないのである.学校での勉強は,敷〔し〕かれたレールの上を走るように,親や学校や先生の期待や指導どおりにやっていれば良かった.しかし,一旦このレールから外れてしまうと,つまり学歴社会のレール外では,『只者ではない』『ひとかどの人物』と言われるように成るには,それこそ只事ではないような努力が必要なのである.
ブライドがあるから学歴のない『只者』に甘んじることは出来ない.しかし,どこかで一流の人間になりたいという『上昇志向』がついて回る.昔なら『臥薪嘗胆〔がしんしょうたん〕』という言葉もあるように,『薪〔まき〕の上に臥〔が〕して』『胆(きも)』を『嘗〔な〕める』ような努力が必要なのだが,豊かな社会の若者にはそんなハングリー精神などあるはずがない.そこで,準『学歴社会』とも言える『資格社会』に目をつける.さまざまな『資格』を獲得して,学歴喪失の不利を一挙に挽回しようとする.それはそれで良い.しかし,資格社会は資格を売買する社会であって,資格を取れば出番が与えられるような社会ではない.
資格を目指して勉強するのは,軽症の引きこもりである.学歴社会に本当に絶望しているとは言えない.
しかしもうひとつのタイプは,悪いけれど,もっと陳腐〔ちんぷ〕である.ミュージシャンになりたい.芸能人になりたい.プロボクサーになりたい,小説家になりたい,アニメ作家になりたい,マンガ家になりたい,プロサッカー選手になりたい…….子どもらしい夢ならそれで良いのだが,現実には20歳を過ぎた若者がこんな夢を抱いたまま無為に過ごしている.ミュージシャン志望の若者は楽器ひとつ手にしたことはなく,プロサッカー選手志望で現実にプロのセレクションを何度も受けて落ちている若者も,ふだんはどこかのチームに所属して毎日練習しているのではなく,夜中に公園でひとりボールを蹴っているだけである.つまり夢に向かって黙々と努力をしているのではなく,学歴社会のレールから外れてしまった代償願望として,非現実的な『一流人間』としての自分を妄想しているのである.
彼らにとっての『一流人間』とは何なのだろうか?彼らは決して一流の『農業者』を目指したりはしない.同じような意味では一流の『職人』や一流の『市井〔しせい〕の人』,一流の『隣人』になろうとなどはしない.結局は世の中におだてられ,他人より『高額収入』の得られる身分を狙っているのである.彼ら自身は,親に依存し,一円の金も稼がず,別の意味では今,現在お金にこまっているのではないのに,である.
『只の人』になることが嫌いな引きこもりたちを私は支援している.実は私は,こんなひきこもりが大嫌いである.大嫌いだからこそ,私は彼をひきこもり状態から引っ張り出したいのである.
(6月30日)