直言曲言 第63回 「社会病理とは何か」
引きこもりは病気ではない……私の主張である.それでは,引きこもり状態からなかなか抜け出せないのはなぜか?このことを理解するためには,「病気ではない」ということにいくつかの補足が必要になる.
ひとつは精神病ではないという意味.代表的な精神病に「分裂病」がある.最近の精神医学会では「分裂病」を「統合失調症」という用語に改めた.分裂病の医学的(科学的)な解明が進んだので病名を変えたのかというと,そうではないらしい.
精神科医にもよるが「分裂病」は不治の病だという医師もいる.私はこうした医師の見解を支持しない.よく分からないのに,こうしたイメージだけが先行しているので,あいまいな「統合失調症」という病名で誤魔化〔ごまか〕すことにしたのだろう.「統合失調症」はその人にとって対処不能に見える外部ストレスにより,心が平衡を保てなくなり,正常な判断能力を放棄してしまった状態である.正常な状態では想起し得ない妄想などに支配されるようになるが,ストレスから解放し,人間的な環境を整備すれば,徐々に,あるいはあるとき,何かを契機として寛快する可能性がある.私は医師ではないので,そのような見解を持つ精神科医の意見を支持するだけである.
「統合失調症」の境界領域であるという意味で,「境界性人格障害」という診断名を使う精神科医もいる.「人格障害」とはなんとなく理解できるようだが,これもあいまいな表現である.「人格障害」とは人格の<状態>であり,人格の延長であるという.これもある精神科医は「人格が治療の対象ではない以上,その延長である人格障害も治療の対象ではない」という.
人格障害とは単に『性格が悪い』といっているようなものであり,性格の改造が可能かどうかは別として,自分の性格的な欠点を自覚してコントロールすることは可能である.そのコントロールが「失調」した状態を「境界性人格障害」という.
「統合失調症」にしても「境界性人格障害」にしても,個人の病理に帰している点では同じである.結局,医師は病症を呈する患者本人に対して「治療」の手立てを加えようとする.
近頃たいへんポピュラーな病気になっているといわれる「うつ病」にしても同じである.職場の人間関係や仕事上のストレスで「うつ病」を発症する人が多い.もちろん抗うつ剤の服用によって一時的な解放感は得られる.うつ病は民族紛争などによる難民キャンプの中でも多く見られる病気である.この場合,患者を難民キャンプから救出することによってうつ病そのものが消えてしまうことが良く知られている.日本の場合でも,ストレスの発生源である職場の離脱(退職や転職)によって,うつ病の快癒の事例が多い.患者本人の内在的な器質的要因に帰するよりも,本質的な病理は社会的要因に求めるほうが正しい好例である.
引きこもりは病気ではない……と主張する最大のポイントは,それが個人の病理である以上に,社会病理の反映である点を理解してほしいからである.
私は引きこもり問題に関わる以前から,『問題は社会システムの歪みにある』という仮説を漠然と持っていた.しかし,仮説は仮説であり立証できているわけではない.具体的に引きこもりの若者やその家族と会うようになって,その仮説にほとんど確証を得た.それは引きこもりの若者のほとんどに共通する『症状』や環境要因があることである.それは社会や家族に起因するストレスとそれへの反応様式である.個々人の器質的な原因が問題であるとするなら,これほど多くの引きこもりに共通する背景があるはずがない.共通の背景とはまさに『社会的要因である』としか言いようがないのではないか?
私が『引きこもりは病気ではない』というのは,個人的病気ではないということにとどめを刺す.『引きこもりは社会的病理の反映』だというと,相談にこられたご両親は決まって,何となく分かったような相槌を打ちながら,少し困ったような顔をされる.
引きこもりになるのは『親の育て方が悪いから』という自責の念からは解放されるのだが,『社会が原因』などといわれても,解決の糸口がつかめない.まさか『社会改革をしなければお子さんの引きこもりは治りませんよ』などといわれるのではなかろうかと不安になるらしい.
『社会改革』はなるほど必要だが,それは新たな引きこもりの発生を予防するためである.今,現存する引きこもりを解決するのに『社会改革』では間に合わない.歪んだ社会が生み出した『社会不信』『人間不信』に気づかせ,NSPや鍋の会を通じて『人間信頼』を取り戻させればすむ話である.
さて,『社会病理』とは何だろう?いまさら資本主義経済がいけないなどと言っても仕方がない.しかし,市場経済の過熱は深刻なデフレーションや消費不況を生み出し,グローバル化経済はリストラなどによる大失業時代を迎えている.あるいは経済繁栄を謳歌した20年も前の時代から,競争社会の中でのサバイバル(生存競争)が人々の心を支配してきた.
生存競争を勝ち抜くための第一の手段は,『学歴』と『金銭』の取得ではなかったか?あるいは,その両者は分かち難く絡まり,子どもたちは早くからそのスタートラインに立たされた.その競争はもちろん大人になっても続き,他人を出し抜き,裏切り,密かに蓄財する人だけが,物質的な豊かさを手にすることができた.『物質的な豊かさ』に対する疑問,『心の豊かさ』に対する見直しも20年も前から言われだした.しかし,『心の豊かさ』に対する願いは,物質的な豊かさを手に入れることに敗北した人の『代償欲求』であったり,手に入れた人のさらなる願望であったのが実態ではなかったか?
実際には,その中間層である大部分の人たちは,せめてわが子が競争の勝者になることを願い,他人を出し抜き,裏切り,金の亡者になれとは言わないまでも,出し抜かれたり,騙〔だま〕されたり,勝ち組から仲間はずれにされないように子どもたちに『教育』してきたのではないか?
それは必ずしも,ひとりひとりの親たちによってなされたのではないかも知れない.しかし,『社会』がそのような価値観とシステムを持っている以上,『学校』でも『株式会社』でも『マスメディア』でも否応なく,そのような考え方を教え,振りまき,導いてきたのであり,真面目で従順な若者ほどその方向に導かれて来たのは当然であると言える.
学歴尊重や金銭至上主義を非難しても始まらない.少なくとも,それそのものを『社会病理』であるなどといっても,所詮『牽〔ひ〕かれ者の小唄〔こうた〕』にしかならない.
ただ,そうした競争社会を生き抜くために身につけさせられた『人間不信』だけは,現代社会の病理であると指摘せざるを得ない.人に裏切られたり,騙されたりしないように,彼らは幼いときから人を信じず,友達とも深い付き合いをせず,人との距離を一定に保つようにトレーニングされてきた.それはある意味で現代人の資格かマナーであるかのように,知らず知らずのうちに身につけさせられたのである.
多くの社会システムの変化がそれを後押〔あとお〕しした.核家族化の進行はマンションや団地の室内に家族を閉じ込め,家族は唯一の信頼できる共同体になった.それは同時に,他人を排除し,家族自体の『社会的引きこもり』をもたらした.コミュニティは崩壊し,近隣の子どもたちの遊び仲間も喪失した.学校という初源的な共同体のひとつも,本来は自我の形成にとって重要な友達という<他者>との出会いの場であったはずで,それが子どもにとって『人間社会』を体験する場であったのに,今や『経済社会』への予備校と化し,その準備のために一見役に立たない『人間性』は深く閉ざさせてしてしまうことを教え込まれているのではないか?
経済システムや教育システムの批判はたやすい.しかも,その崩壊は,今や誰の目にも明らかである.問題なのは,崩壊したシステムの建て直しをするべき『人間主体』が崩壊しつつあることである.『引きこもり』問題はその萌芽であり,むしろ現代社会の中の最も良質な若者が予兆としての『引きこもり』現象に取り込まれつつある.
敢えて断言するが,彼らは真面目で,優しく,頭脳明晰である.だからこそ社会風潮に敏感に反応し,歪んだ価値観にも汚染されやすい.汚染されつくしてしまえば,いっそのこと楽なのに,どこかで挫け,どこかで立ち止まる.それが『引きこもり』である.
引きこもることは歪んだ社会システムへの参加の拒絶であり,それ自体が悪いとは思えない.『社会不信』も『人間不信』もまさに今の『社会』が与えたものなのである.
しかし,人は『人間』『社会』『労働』を拒絶して生きていくことはできない.もし,誤った人間観,社会観,労働観に汚染されているのなら,新しい人間,新しい社会,新しい労働に接することによって自らの『人間主体』を再確立するしかない.
『引きこもり』からの脱出にとって一番難しいこと,それは『人間不信』『対人恐怖』などの人間拒絶とともに,往々にして『自己不信』にさえ陥っていることである.単純化して言ってしまえば<自我>の形成に失敗していると言える.ただ,それは『人生の失敗』ではない.自我の形成をやり直せばよいのである.競争社会を勝ち抜くための『孤立した自我』でなく,他人と共存・共生できる『社会的な自我』の再生である.
(11月7日)