直言曲言 第43回 「春」
春はあらゆる生き物が活力を漲〔みなぎ〕らせ,花が咲き乱れる季節である.しかし,引きこもりの若者にとっては実は一番苦しい季節でもある.春は卒業の季節であり,進学の季節である.人によっては就職の季節であり,社会人としての第一歩を踏み出す季節でもある.長く引きこもっている若者にとっても,今年の春こそは新しい歩みを始めたい,と内心ひそかに誓いを立てている.親や周囲の人には話さなくても,毎年毎年この季節には誓いを立て,そしてそれを果たせずに,歯噛〔はが〕みをしながら苦しい思いに耐えてきた.
高校1年のときに引きこもり始めて,今年22歳になるという最も典型的な引きこもりパターンのA君にとっては,もう7年目の春である.
1年目や2年目の春には別の高校に入りなおそうとした.2年目には,実際に別の高校に入学をしたが,一月も通えなかった.3年目には大学入学資格検定試験(大検)に合格したのに,大学入試を受けられなかった.4年目はセンター試験を受けたが,入試は受けなかった.5年目は大学の二部に合格したが,『こんなのは自分の目指すべき進路ではない』と,入学の手続きも取らなかった.6年目の春は無為に過ごした.そして,7年目の春である.もう大学進学の夢は諦〔あきら〕めた.
中学時代までの友人B君は,今年大学を卒業して一流企業に就職が決まったそうだ.B君は家が近所で,A君が引きこもってからも,何度か家を訪ね,電話も何度も掛けてくれた.しかし,A君は会わなかったし,取り継がれた電話にも出なかった.知人や友達に会うのが嫌で,昼間はできるだけ外出を避け,夜中に人目を気にしながらこっそり外出したので,B君等にも会わずに済んだ.B君の噂はA君が最も聞きたくない話だった.それでも,親はB君の大学卒業と就職のうわさを聞きつけてきて,A君の耳に入れた.
親は『遅まきながらも専門学校へでも進学して,就職しなさい』という.しかし,専門学校へ通うということ自体が,大学に行った友人達への敗北を認めるようで耐えられなかった.B君は小学校,中学を通じてA君より成績は下位の,A君の弟分〔おとうとぶん〕みたいなやつだった.B君の進学した高校は,A君の進学した高校よりも偏差値の低い二流高校だった.これから社会に出てB君の配下〔はいか〕になって働くような自分を想像するだけで,どうしょうもないほどの焦燥感〔しょうそうかん〕と嫌悪感に襲われる.誇り高い性格であるA君のプライドはずたずたに引き裂かれる.
3つ違いの妹も,去年までは自分の一番の理解者だと思っていたが,大学に入ってからは自分に近寄らなくなり,今では学生生活を謳歌〔おうか〕しているようで,腹立たしい存在になっている.この頃ではめっきり女らしくなって,軽佻〔けいちょう〕な社会の匂いを紛々と身につけて帰ってくるのは,我慢がならない.春は卒業だ,進学だ,就職だと人々の浮かれている様が,妹の様子からも伝わってくる.お花見の予定の話などしている妹は,まるで悪魔の化身の様に思えてくる.春は,≪いっそ人生の幕を閉じてしまおうか≫と思うほど暗い季節である.
親もまた,春が巡ってくるたびに,言ってはいけないと戒めつつも,つい将来の話をしてしまう.友人だったB君はどうしている,C君はこうするそうだ….
最近になってようやく,A君は気がつき始めた.<こんなに苦しい思いをするのは,野心を捨てられないからなのだ>と.どこかにこんな詩が載っていた.
過去なんて 捨ててしまえ 世間体なんて 捨ててしまえくだらないプライドなんか 捨ててしまえ高い理想なんて 捨ててしまえ 恥ずかしさなんて 捨ててしまえ縛られていることなんて 捨ててしまえ 躊躇なんて 捨ててしまえ満足していない現状なんか 捨ててしまえもっと素直に もっと素直に
by疾風(ニュースタート事務局HP『旅人』所収)
記憶を辿ってHPを開いてみると,こんな詩も目に付いた
* 俺の声が届くならそのdoorをぶち破れ
傷つかない毎日なんて何処にもないのだから
(music&Lyrics&arrenge:jun)
春がにわかに目に入ってきた.もう桜の季節は過ぎてしまったけれど,次の土曜日くらいには靱公園で開かれるという「例会」に行って見ようかな?
毎月第3土曜日の午後2時から開かれる「大学生の不登校と若者の引きこもりを考える会」の例会.大阪市西区の靱公園では,開会の少し前頃から,A君のような青年がベンチに腰掛けているのが見られるだろう.
ところで,このA君って『僕のことではないか』と思ったあなた!
『家の子のことではないか』と思ったお父さん,お母さん!
そうなのです.あなたのことです.お宅のお子さんのことです.もちろん,このA君には特定のモデルはいません.でも,年齢や性別や細かい経過は別にして,引きこもりの子が抱える悩みや課題は驚くほど共通しているのです.
今年の春,ニュースタート事務局関西からは何人かの若者が卒業して行った.
昨年の春,このA君と同じように『人生の幕を閉じよう』と思っていたA太君.その後,鍋の会に参加して,何時〔いつ〕の間にか,引きこもりの若者を引っ張り出す側に回っていたね.在籍していた大学は卒業できなかったけれど,先月オーストラリアに旅立った.短期間だけれど語学力に磨きをかけて,元気に動き出すだろう.
そのA太君と仲が良かったA雄君.NSPに誘われて初めて鍋の会に顔を出した頃の君は,痛々しいほどに人間不信の目をしていた.昨年の靱公園での花見のとき,場所取りのビニールシートに座って心細そうな顔をしていた.そのA雄君が,母親を伴〔ともな〕って東京の専門学校へ,入学手続きをしに行った.お母さんはA雄君の1年間での変貌振りに驚いていた.感謝のメールをいただいた.
自分から卒業を宣言したのはA子さんだ.彼女は精神安定剤に依存していた.おまけにアルコール依存症で,過食症気味でもあった.参加無料でアルコールも食べ物も,飲み放題,食べ放題の鍋の会は,A子さんにとって試練の場であったろう.
その鍋の会からしばらく遠ざかっていたA子さんは,3月の鍋の会に参加して『お世話になりました』と挨拶した.これまでと違って,目には強い光が回復し,体つきや動きにもシャープさがみられた.もう大丈夫だA子さん!
ニュースタートからの卒業には,色々な形がある.彼等がやってくるのは,学校に入学するときのように春には限らない.卒業して行くのも春には限らない.それでも,いつも心には春のそよ風が吹いている.
(3月28日)