直言曲言 第25回 「お母さん,そこどいて!」
引きこもり問題を扱っている私達が話しかけようとする対象は,まず第一に引きこもりの本人です.でも,本人は引きこもっていてなかなか出てきてくれませんから,とりあえずお母さんやお父さんに話しかけます.兄弟姉妹や親戚,学校の先生なども私達の集まりによく参加されます.この問題に関心を持たれるボランティアの方も多く参加されます.
このコラムでもいろんなことを書いてきましたが,やはり本人に向かって一番多く語りかけてきたつもりです.続いてお母さん,お父さんの順番です.お父さんよりはお母さんの方に話しかける方が多いのは,例会などへの参加も,お母さん方のほうが多いせいでしょう.
もちろん,私達の目から見ても,わが子の引きこもり問題により深く関わっておられるのはお母さんの方です.
お話をお聞きしていると,わが子が引きこもった経緯やその後の生活振りや様子の中に,お父さんの姿が全く登場しないケースもあるので,ときおり『お父さんはどうしておられますか?』とお聞きします.すると,『本人が父親を怖がって』とか『父親は頭ごなしに叱りつけるので…』とか,中には『父親が息子の問題に口を挟むと却って混乱してしまうので…』と言って,父親を息子の問題から遠ざけてしまっている母親も少なくありません.まるで三角関係にある二人の男性を,互いに顔を合わさせずに上手く操っている女性のように,綱渡りのような生活をしておられます.
しかし,子どもの引きこもりからの脱出にはどうしても父親の協力や参加が必要なように私は思います.ただし,父親と離婚や死別しているケースでは,解決が困難だというのではありません.引きこもりは『思春期病』のひとつであり,人間としての成長の途上での<父親>=大人像との対立がどうしても重要なテーマになっています.父親の<克服>や父親との<和解>が欠かせないプロセスであると思います.
私はよく『引きこもりは<社会病>』だと言います.ある意味では,学校教育や就職の仕方などの中で不適切になってしまった<社会システム>が,父親という『社会』を代表する人格を通じてある種の生き方を迫り,その生き方になじめない若者を引きこもりにさせます.
その生き方に適応して行くのか,拒絶を続けるのかは,どちらが正しいとかは言えず,いわばどちらでも良いことなのです.拒絶するのなら,おそらく,その大人の雄(オス=父親)の群れ(家庭)を離れ,自立すべきなのでしょう.それが人間に限らず,生き物というものに共通する普遍的なルールだと思います.父親と死別したり,母親が離婚している場合はある意味でこの問題は生じません.あるいは逆に,失われてしまった父親像を子どもが自己の内部化してしまい,自分自身の中での葛藤にするので,却ってなかなか解決しにくいケースもあります.
たいていの父親は子どもに自分の生き方を手本にして欲しいと思っていますが,父親の生き方に適応するのは困難な時代なので,子どもと話し合いながら,父親が生き方を変えるか,父親を<克服>させてしまうかが必要なのです.
もちろんこの<克服>は,必ずしも父親との離反や離別を意味しませんし,ある成長段階に達すれば,父親への理解や和解につながるのが一般的です.しかし,ここで母親が父親の存在を子どもの目から隠してしまうと,冷蔵庫の中で凍結してしまった冷凍食品の様に,<問題>は腐りもせず<食卓>に登場もしないで,しかも<存在>しつづけます.子どもの成育の過程で,父親が果たすべき役割が肯定的にも否定的にも失われてしまいます.
私達は,引きこもりが『父親の<生き方>のせいだ』と言っているわけではありません.まして,母親のせいでもありません.昔,社会システムの歪みという視点を持ち得なかった人々は,こうした引きこもりのような社会的不適応の原因を家族関係にのみ求め,『母源病』という概念を作りだし,母親の責任ばかりを責めました.もし,家族関係にのみ原因を求めるのなら,父親とて同じ責任を負うべきでしょう.『母源病』は性による分業を前提にした教育責任論です.私は『引きこもり』の原因や責任を父親や母親に求めるべきではないと思います.
ただし,引きこもってしまったわが子を,そこから脱出させる責任は,父親にも母親にも大いにあります.不公平なことを言うわけではありませんが,子育てから手を引いてしまって,女房にまかせっきりというお父さんよりも,お母さんの方はわが子の問題に深く関わっており責任は重大といえるでしょう.実際,母親が孤軍奮闘して父親を遠ざけたりしているわけですから,母親がどのような役割を果たすかが,さらに重要にならざるを得ません.私は,母親や父親の役割の重要性を指摘しつつ,実際に若者が社会性を獲得して行く段階では,『両親以外の第三者の力を借りなければならない』(直言曲言『親と子』他)と指摘させていただいています.
ところが,ここで決定的に間違った役割を演じてしまうお母さんが多いのです.父親は自分が変化することや<克服>されることによって,つまり,それまでの父親としての自己の<否定>により,わが子の引きこもり脱出を手助けできるのですが,母親にも同じことが言えるのです.わが子にとっての<ストレス>の原因たる父親を排斥したのが必要な措置だとすれば,同様に,母親も自己の姿をわが子の前から徐々にフェードアウトさせる必要があります.なぜなら,引きこもりの若者は(母)親に反撥しながらも,社会化できていない,自立できていないのですから,(母)親に精神的にも,経済的にも,日常生活の面でも<依存>しています.この<依存>を解くことこそ引きこもりからの<脱出>であることは冷静に考えれば誰でも分かるはずです.
ところが,母親の多くは自分への<依存を解く>こと以外の脱出指標,例えば『友達をつくる』とか『アルバイトに行けるようになる』とかを優先させ,実際にはその『友達』や『アルバイト』の前に母親自身が立ちはだかってしまう人が多いのです.
若者が引きこもりからの<脱出>のために,第三者からの呼びかけに必死になって応えようとする.あるいは<対人恐怖>を克服して何とか外へ出ようと試みます.それは心に汗をかきながらの,苦しい努力なのですが,そんなとき,母親は何をすべきなのでしょう.何も言うべきではありません.心の中で声援を送りながら黙って見つめているべきです.時には,思いきって背中を押してあげるべきかも知れません.
『ああ,ようやくわが子は自分達への<依存>から脱出して,船出をして行くのだ』
そう考えるべきなのです.でも,私が見てきたかなりの数の母親は,わが子の苦しむ姿を見かねて,彼の前に立ちはだかってしまいます.母親には,『わが子を愛している』という絶対的な自信があり,『わが子を守れるのは自分だけ』という確信があります.よちよち歩きの幼児が,危なっかしく一歩を踏出しています.それが自立の第一歩なのです.しかし,母親は思わず手を出して抱きとめてしまいます.私は思わず叫びそうになります.
『お母さん,そこ どいて!』
(9月15日)