直言曲言 第22回 「親と子」
わが子の引きこもりについて親はどのように関わるべきかを巡り,繰り返し何度も書いてきた.<子離れ>の必要性,親自身の<上昇志向>からの離脱,<自閉的家族>から<家族を開く>へ・・・.
いずれも同工異曲と言ってもよいようなことを書いてきたのだが,ある種の親御さんにはどうしても理解していただけない.
『若者の引きこもりを考える会』の例会を始めてから30ヶ月以上が過ぎようとしている.その初期の頃から断続的に参加しつづけて来た親御さんがまだ『問題』を解決出来ていない.そんな親御さんがまだ少なくとも三人はいらっしゃる.
この三人の方には幾つかの共通点がある.お父さんはいずれも立派な社会人であり,既にリタイアされた方も含めて,人生の中で,既にある種の社会的使命を無事に果たし終えた(あるいは終えつつある)といえる存在でもある.またそのうちのお二人は見るからに『子ぼんのう』といってもよい態度でわが子に接しておられる.またお母さんのお二人はしっかり者で『賢婦人』である.三人のうちの二人にしか言及していないのは,ご主人と奥様のうちどちらかにしかお会いしていないケースもあるからである.
このお三方が,長期に膠着したままの状況で『問題』が解決しないのは『家族以外の第三者の力をお借りなさい』というアドバイスを受け付けないからである.
「『第三者』の力を借りれば,たちどころに『問題』が解決する」などと言っているわけではない.しかし,少なくとも『膠着』している状況が『流動化』するだろうという予測はできる.それを受け付けない.
なぜだろう?
<親の力で子どもを救いたい>という気持ちを強く持ちつづけておられるからである.
お父さんが<立派な社会人>であること,<子ぼんのう>であること,お母さんが<賢婦人>であること,それらのすべてが子どもの問題の解決に『第三者の介入』を排除する壁になっている.敢えて付加えれば<世間体>を気にかける体質も共通しているかも知れない.
『立派な社会人』や『賢婦人』には<良い加減さ>がない.関西弁で発音すれば<エーカゲン>なところがないのである.頭で考え,理解し,それをプログラム化して実行しようとする.だから例会にも勤勉に参加されるし,他の人の話も一生懸命に聞いておられる.
だけど,他の人がどこか『感性で理解』し,<子どもに密着するのでなく,第三者に任せてみる>という試みを次々に実行されても,この人達は<他人に任せる>ことが出来ず,それを『自分』でやってみようとされているのである.
<第三者に任せる>などということは誰にとっても<不安>なことであるには違いない.けれども,それを一度『良い加減』な気持ちででも良いから,やってみることをお勧めしている.目をつぶって『清水の舞台から飛び降りる』心境かも知れない.あるいは『ライオンの母親がわが子を崖から突き落とす』気持ちというのが,よりリアルに『似ている』とも言える.
愛する子どもの問題でこうした<比喩>を使うのは<不謹慎>なのかも知れない.『崖から突き落とす』などということを,わが子の『引きこもり』を前に逡巡する親に対して言うのは酷なことである.
しかし,ライオンの母親の寓話を聞いて,私達は母親の生き物としての経験や真の愛情や知恵を知ることができる.人間はそれをなかなか踏み切れない.親と子の絆を,生き物としての命の伝承として以外に,家族という閉じられた共同利害主体として完遂しようとするのである.
親から見れば,わが子の引きこもりは,思春期を迎えた子どもがさまざまな社会的体験を前にして<外敵>に脅える哀れな姿に見える.だから,親鳥はわが懐に抱えたままで『怖くはないよ』と諭して,いずれはその<慣れ>が<巣立ち>のときを迎えるだろうと<待とう >とするのである.
考えてみれば確かに『子育て』は親にとって<待つ>ことの繰り返しであった.<這い這い><乳離れ><伝い歩き><ことば><オムツ離れ>….子育てのさまざまな場面で『うちの子は標準より発達が遅れているのではないか?』と悩んできたが,いずれも,せいぜい三ヶ月か半年程度の早い遅いで問題はクリアーされた.
若者としての <巣立ち>もそうした<個体差>の問題であろう.だから親は辛抱強く待とうとする.
引きこもりの若者が<外敵>に脅えているのは事実である.それは,世間というものを『鬼や阿修羅が跋扈する魑魅魍魎の巷』だと教えて,『家族こそが暖かい愛に包まれた,人間が唯一生きられる場所』だと諭して来たあなたがた親の,根本的な間違いの結果ではないのか?
こんなことを申し上げても,あなたがたはお気づきにならない.それは子ども達に教え込んだだけでなく,あなたがた自身が今でもそう信じ込んでおられるからである.それは<個体>の問題ではなく<時代>と<社会>が捺した人間の<孤立>と<疎外 >の刻印である.
若し,あなたがたが教え込んだことが真実であるならば,子ども達は永遠に社会に出て行けないかも知れない.恋愛をすることも出来ず,結婚もしないだろう.
しかし,引きこもりの若者たちは気づき始めている.家族というまるで日米安保のような『共同利害主体』を乗り越えて,<外敵>とこそ <信頼関係>の糸口を探り,<愛>に出会い,<友情>に触れなければ生きていくことが出来ないことを.そのために必要な<親離れ>の儀式(イニシェーション=通過儀礼)をあなたがたは許さない.
あなたがたは若い頃に<家出>をしたか,企んだことはないのか? 親から<出て行け>と言われたことはないのか?
家出を試みたり,親から『出て行け』と言われたこともないのなら,子どもにそれを体験する機会を奪うべきではない.若しあるのなら,そのときほど<親の愛>を身近に感じ,自立することの困難さを感じたことはないはずである.
そのことを教えずにして,甘い親の愛を押し付け続けようとしているなら,あなたのお子さんは永遠に巣立ちを体験できないかも知れない.
(8月1日)