12月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
第二次世界大戦敗戦後、日本は大した反省もできずに朝鮮戦争の特需などを利用し経済成長期に突入し、それまで地方にいた人が東京や大阪などの都心部に移住した。団塊の世代が成人すると、それまでは地方で月に1万円か2万円ほどの出費でできていたような生活が、月に10万円20万円と費用がかかることとなり、このような大規模な引っ越しや家族の分散に伴う都市部での生活は、更なる経済成長に拍車をかけた。地方は過疎化し、都市部やその近郊(郊外)に人口が集中した。地方も含め地域性は失われ、教育は義務教育などの学校制度と各家庭(主に核家族の親たち)に押し付けられることとなった。都市部で生きていくことは出費がかさむこともあり、子どもたちへ教育は主に企業に雇用されるためのものとなり、それが受験勉強のような形式を作りこれも産業化した。大学へ進学し、安定した企業に雇用されるための教育システムが、学校や各家庭の教育の礎となった。
一方、都市部への大移動によって完成したはずの経済成長は、終了しても地価のバブルなどを引き起こし止めようがなかったが、一旦自壊したのが1990年ごろであった。今思えば、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、インターネットの普及がはじまった1995年ごろがターニングポイントで、後先考えない大量生産大量消費で地球環境を破壊し、バブル崩壊などの人災も引き起こした都市部での人の生活を見直せたかもしれなかった。だが、失われた10年20年といわれ、実体経済は減速し、後に新自由主義と言われる一部資本家にお金が偏在していくグローバル金融経済へと加速していく。人の生活はコストとして計算されることになり、労働は商品になった。それら資本主義社会の行き着いた仕組みに乗れない個人を追いやったことによる弊害で、就職氷河期やフリーター、勝ち組負け組、非正規雇用や不登校、引きこもりやニートなどが社会問題化し、若者が若者として社会に参入していくことが阻まれ、当然の結果として少子化になる。団塊の世代は団塊ジュニアを産み出したが、団塊ジュニアは子どもを産み出せなかった。
かつては200万人近くあった出生数は、推計よりも2年早く90万人を割ったとのことだ。ここ40年下がり続けた出生数は、今後はより加速度的に減っていくことだろう。目の前から子どもという存在が消えてしまう事態はもう訪れている。自らの失策を「産む機械」などといい、女性たちに責任を押し付けてきた時代には別れを告げなくてはならない。子供の数を増やすのではなく、子どもという存在を社会全体で大事にしていかなくてはならない。大人になるための子ども、将来子供を産んでくれるようになるだろう存在としてではなく、子どもという存在自体を社会全体で大事にしていかなくてはならない。不登校だ虐待だなどといって親を責めている場合ではない。今の学校教育と親だけでは子どもという存在を守っていくことはできない。学校教育は、大学を最高学府とする企業に雇われるためだけの受験教育から脱していかなくてはならない。親としか関わりのない子どもに対して、その親に「学校へ行け」なんて言わせるようなことを社会が親にさせてはいけない。学校は子どもが頑張らなくても行きたい場所にしなくてはいけない。子どもを親の所有物のようにさせてはいけないし、親や学校だけに子どもを押し付けてはいけない。
2019,11,15 髙橋淳敏
ニュースタートを通して出会う人、子どもの関係で出会う人には、私が動いていった先で知りあうので、私がどんな人間かある程度分かってもらいやすく自信も持ってその場にいられる。でも、相方の知人に初めて出会う時は自分はからっぽで場違いではないかと感じてしまう時がある。彼らが話す話題は私には初めて聞く事も多くわからなかったり、それでも自分を大きく見せようとしてしまう自分が早々に嫌になり気持ちが下をむいてしまう。それはなぜか。彼らの間ではどこどこで働いている○○。誰々の母親、ということは関係なく、一人の個人として何を考え、何を大切にし、その為に何をしているのかということが求められる気がするからだ。今まで一応生きてきた自分にはあまりに何も考えが無い事に気付く。どうしてなのか。学校では何も考えずに教室の中に座って配られた物をこなしていれば毎日が過ぎていった。文句も何も言わずテストの点数を取っていた私は、一つ一つ疑問に感じて先生にぶつかったりこんなことやる必要あるのかと学校に反抗していた生徒より成績は良かった。先生が望む回答を書き、望む行動を取っているうちに、周りと同じような能力で同じような考えをもった、上からの命令に従う人間に、まるでベルトコンベアーで流れてくる版を押されたロボットのようになっていた。少なくともそこに生きにくさを感じて今ここに辿り着いてはいる。しかし、一人一人が個人として、肩書きも関係なく、問題意識を持って考え行動している人たちの中に入った時、自分には何もないと感じてしまう。
37年間生きてきて、○○で働いているという肩書きもなくなり、一人の人としてどう生きていくか考え始めた。小さい頃から好きでずっと手放さずに温めてきた事に、今まで人と出会い経験した事とが合わさり、今やっとやりたいことが見えてきたところ。そのために何をしていけばいいか考えて日々行動できていればいいのだが、具体的に動けるのは少しずつで、止まっているようにしか見えない。でも毎日なんとか生きている。でもこのなんとか生きていることを良しとしたい。止まっているように見えるけど頭の隅には小さな炎がふつふつとしていて、たまにアイデアにぶつかったり人からの言葉に衝撃を受けて動く時もある。何をしていいかわからなくなったら、やりたい事に直接関係ないように思えても、自分が会いたいなと思う人に会いに行ったり、初めての人と出会える場所に行く。そうするとまたアイデアにぶつかると思う。「誰々の○○」ではなく一人の人として立っていられるようになりたい。
2019、11,14髙橋久美子
Panorama Theme by Themocracy | Login