NPO法人 ニュースタート事務局関西

[われらは愛と正義を否定する」髙橋淳敏

By , 2023年12月16日 5:00 PM

われらは愛と正義を否定する

このような過激にも思われる行動綱領を示したのは、10年前に亡くなった青い芝の会の横田弘氏である。タイトルにした言葉は綱領の3項目目なのだが、その説明としてこう続く。「われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ、真の福祉であると信じ、且つ、行動する(青い芝の会神奈川県連合会の会報『あゆみ』1970年10月25日付)」。このころの青い芝の会に何が起き、彼らが何を考えざるを得なかったかは、1項目目「われわれは自らがCP(Cerebral Palsy:脳性マヒ)者であることを自覚する」に色濃く出ている。そこには自らが現代社会に「本来あってはならない存在」とされつつある認識を原点とすると書かれてある。「本来あってはならない存在」として自らを認識し、そのような規定をした社会に通用している愛と正義を否定する。そのことよってしか横田らは、行動し生きることができなかった。いや、その頃の彼らの行動を知れば、猛烈に能動的に、このろくでもない社会を精一杯生きることにしたことが分かる。
全部で4項目ある簡潔で短い行動綱領が小さな会報の中で掲載された5カ月前に横浜で障害者殺し事件が起きた。何度も自分の文章でも取り上げたが、今回もこの「愛と正義」について考え始めたので、ここでも事件の概要を記しておく。1970年5月横浜市金沢区で2人の重症CP児をかかえた母親が、当時2歳になる下の子を絞殺した事件があった。そして、1人でさえ絶望的になってしまうこともあるCP児の子育てを、2人も抱えた悲劇的な母親のために、減刑嘆願運動が起きた。私はギリギリ産まれてもいないが、当時は沖縄もアメリカの占領下にあった時代で、ベトナム戦争もあり学生運動や反戦平和運動、労働運動など、市民活動もピークにあった時期という背景もあっただろう。そういった時代に彼らが羨望と疑いをもって見ていたのもかもしれない。そして、殺される側の論理として、今でも鮮烈に感じることができる彼らからの主張がされる。以下は私の意訳が入る。CP児が殺され、別の原因や犯人が追及されることなく減刑嘆願運動が起きるのは、CP児は育てるのが大変であれば殺されてしかたがないということだ。少なくともその命は比較され軽視されている。母親に同情する減刑嘆願運動が「愛や正義」の名のもとに行われるのであれば、彼らは「本来あってはならない存在」でしかない。この事件とその嘆願運動によって、彼らはこのままでは殺されることを突き付けられ、命がけで自らの存在を主張するに至った。
引きこもりという名詞が「引きこもる」の動詞から派生した行動綱領のようにも見れば、彼らほど追い詰められていて能動的とも、自らで決定できる行動とは言い難いが、この4つの項目は引きこもる状況とオーバーラップする。戦後の経済成長期の彼らは、一方で人権運動などの希望もあっただろうが、「労働力」やその協力者とも見なされない邪魔者のような扱いで肩身の狭い思いをしたはずである。「ひきこもり」も高度経済成長が終わり、「労働力」としては不要になった社会に現れた名詞である。一方で福祉制度のような希望とも言えない延命装置を作ったが、「労働力」自体が不要となり、引きこもるという行動綱領に追い込まれた「ひきこもり」は、社会的には「本来いなくてもいい存在」でしかない。父親が引きこもる子を殺したり、引きこもる子が殺される前に親を殺して心中するなどの多発する事件を見ていると、「本来あってはならない存在」にまで追い込まれているように思う。青い芝の会が「愛と正義」によって追い込まれて、開き直るしかなかったように、引きこもる行動綱領にも居直るようなことが大事なのではないかと思う。「本来いなくてもいい存在」として突き付けてきた社会に、それでも私たちが生きていることを態度でもって外へと示す。例えば、今やっていることが籠城戦に近いのであれば、何に抗っているのか、何と争っているのかを少しでもはっきりする。
実は今回「愛と正義」について考え直そうとしたのは、引きこもりのことでも青い芝の会のことでもなかった。先月の沖縄であった反戦の県民大会で「争うよりも愛しなさい」というスローガンを掲げていたのと、連日報道されているガザの状況を見てのことであった。「争うよりも愛しなさい」とは若い世代の反戦運動への参加を呼びかけてのことと聞いた。私はやらないので知らないがSNSではこのスローガン周辺がいろいろと物議を呼んでいるらしい。だからもう誰かが言っているようなことなのかもしれないが、この争うことと愛することを天秤にかけ、しかも最後に「愛しなさい」と指示か命令で終わるのは、とてもまずいと私は思った。ガザで行われている虐殺は、イスラエルの正義であって、イスラエルにとってはそれが同胞への愛であると宗教的にもそう考えていると思っていたからだ。争えてもいなくて一方的なイスラエルの「愛と正義」によって虐殺が行われていると私は考えている。だから「愛しなさい」という指示や命令は、この状況を好転さるというよりも、火に油を注ぐと考える方がいいのではないか。そして、米軍基地や自衛隊基地によって占領され、沖縄を追い込んでいる私たちの「愛と正義」について今考え直さなくてはならないだろう。戦争になるということは、国家が一体となることで、そのために殺される前に殺すことが正義となり、国のために戦う兵隊へ行くことが愛となる。戦場では敵を助けることは間違ったことであり、敵を愛することはできない。いじめの一つも止められない日本の社会で生きた私たちに戦場で戦況を覆す力が一人一人にあるとは思えない。だから今、引きこもることについて考えたい。「ひきこもり」にとって働くことが正しいことなのか?「ひきこもり」を見守ることが愛なのか?私はそのように通用してきたこの社会の愛と正義を否定する。

2023年12月16日 髙橋淳敏
参考文献 
「母よ!殺すな」横塚晃一
「われらは愛と正義を否定する」横田弘 立岩真也 臼井正樹

11月例会報告

By , 2023年11月24日 9:41 PM

 11月18日(土)の定例会、参加は13名でした。(内7名の方がご家族)
 冒頭はニュースタート関西がどう始まったかなどについてと、先月の文章の「やめる」ことについて。1人の人が引きこもるということは大変なことでもあり、その引きこもることを継続するために支えていることが何かあるはずだ。例えば「家がある」「食べるものがある」「子ども部屋がある」などをずっと続けられている力が日々はたらいている。子が引きこもると、どうにかしなくてはならない、何かしなくてはならないと周りも本人も考えるが、そうではなくて「やめる」こと。例えば「ご飯をつくること」をやめる。」そうすると問題が生じる。その問題が大事である。例会に来られる親御さんに、困っていることは何か問題だと思っていることは何かと聞くことがよくあるが、「私たちが死んだらどうなるのか」という言葉。これは今現在の問題ではない。子が親離れしないのであれば、親が子離れしなくてはならない。「子が引きこもっていること」と「親が子離れしない」ことは同じで、まだそこに問題はない。親が子離れして初めて問題が出てくる。そしてその問題に対して動き出すことができるだろう。
 皆様の話からは。親が思う自立とは、経済的に一人で生きていけること。親がこうなるものだろうと思い込んでいる人生のレール(大学卒業→就職→結婚などで親から離れて暮らすなど)から子が外れてしまった時それを押しつけ続けていては子はいつまでも動けないのではないか。子は子の人生がありその生き方、道はそれぞれなのだと、わかったようなふりをして口では自分の好きなように生きなさいと言ったところで、身体全部で納得できていなければ子には伝わらないだろう。変えようと思っても親の価値観がそんなすぐに変わるものではない。まずは「子どものために生きている」をやめて、自分のために生きようとすること。子には簡単に聞いてきたが「何をしたいか」なんてなかなかわからないものだ。いろんな価値観の人と出会ったり話したりしながらわかってくるのかもしれない。(くみこ)

◎12月29日(金)忘年会&1月14日(日)餅つき鍋の会

By , 2023年11月20日 10:30 AM

・12月29日(金)忘年会だよ鍋の会  第488回 ※17時~

○この日は夕方からです。持ち寄りになります。お勧めの一品や手作りの一品など食べ物でもお酒など飲み物でも大歓迎です!こちらでも飲み物やキンパなど用意しておくつもりです。持ち寄れない方でも大丈夫です。カンパなどお願いします。

初めての方でも大丈夫です。今年も一年がんばった。みんなで集まりましょう。

ぜひご参加ください。

参加費:カンパ制

待ち合わせ:16時45分にJR摂津富田駅改札口辺り

場所:カフェコモンズ  

参加資格:鍋の会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加

 

・1月14日(日)餅つき鍋の会  第489回  12時~16時

この日は餅つき機でお餅つきをして、できたてのお餅とあったかいお鍋を一緒に食べましょう。

できたてのお餅は絶対食べすぎてしまうほど美味しいですよね。

みんなで集まって美味しいものを食べましょう。

参加費:カンパ制

待ち合わせ:11時45分JR摂津富田改札口

場所:カフェコモンズ

 

12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2023年11月19日 10:00 AM

12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

12月16日(土)14時から (297回定例会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。

「やめるだけで訪れるチャンス」髙橋淳敏

By , 2023年11月18日 5:00 PM

「やめるだけで訪れるチャンス」
 引きこもることの善悪の話しではない。引きこもること自体は、法を犯すような悪事でもなければ、誰かに褒められることでもない。ここで何が言いたいか結論から言うと、自分があるいは自分の子どもが引きこもっていて、それを解消したいならば、それぞれが正しいと今思ってやっていることをやめればいい。それは、本人にとっても、家族にとっても、支援者にとっても同じことである。引きこもることは生物的にも社会的にも続けていくことは、本来は困難である。引きこもり続けることは、すでにそこに何らかの常態化した力が働き続けなければ生命維持や、正気を保つことも不可能である。ましてや引きこもる生活を1人で維持することは不可能である。1人の人が引きこもるということは、すでに今の今まで、良いことも悪いことも相当なことをやり続けてきいる。2年か3年かあるいは5年か10年か引きこもっていて、あるいはまだ1年にも満たないのか、もう30年にもなるのか、引きこもっていることの何が問題なのか、ちゃんと見極められていないことが多い。そこに問題がないのなら、問題にもならないことは本人だってどうする必要もなければ、親にもどうすることもできない。ましてや、支援者は関わることさえできない。引きこもること自体に問題はない。例え引きこもることが30年続いたとしても、そこに問題がなければ、引きこもる生活のほとんどすべては杞憂に終わる。心配やリスク管理ばかりして、ほとんど何もやらないで多くの時間を過ごすような人は、引きこもっていなくてもたくさん存在している。そんな人たちばかりで構成されている社会と言っても過言ではない。ならば、私たちの人生の大半は、杞憂であったと考えるしかない。
 さて、引きこもっていることの問題はどこにあるか。多くの親は子どもが自立しないことが問題と考えている。だが、その親の話しを聞くと、学校に通い大学などを経て就職し数年勤めてあわよくば結婚し家をローンで購入して上手くいけば子どもを産んでとか、自分たちの全てを懸けて追いかけてきたような生き方を「自立」だと考えている。学校、就職、結婚、家、子どものすべてを望む親も少ないが、漠然として「自立」はそのラインに乗っかっている。私の経験上は自立するには料理ができることはかなり大事なことだが、料理ができることを褒めても、料理ができないことを問題とする親には会ったことはない。だが、今に始まったことでもないが、親の望むような「自立」をする人は、「勝ち組」とは言われても、少数派になっている。直接、親に言うことはないだろうが、会社にだけ依存するような親の生活を、「自立」というのか疑問に思っている子たちの声もある。自立しない、自立できないのは引きこもりに限った問題ではない。「自立」は引きこもることに重くのしかかるようにして関係はしているが、「自立」のことを考えても自立できない。自立はしていなくても「ひきこもり」でない人もたくさんいる。物や人に極度な依存傾向にある人や、社会的に排除や隔離された人など、引きこもってはいられない人もたくさんいる。そういう人の方が、むしろ当然に問題を抱えている。さらには、自立をしない子どもに対して、親は私たちが死んだらどうするのかと問題を前倒しにして作ることまでする。親が死んだ後の子の生活が心配で、そこに問題があると考えようとする。仮にそれが問題になっていくと考えるならば、親がまだ健康である間に子と離れて隠れでもして生活するしかない。子が親離れしないのであれば、親が子離れすればいいだけだ。とても簡単な話しなのだが、親はいろいろと理由をつけて子離れをやろうとしない。それでは親が問題と思っている引きこもっている子と同じではないか。要するに、親がいなくなって子が生きられなくなる問題は、親が子と一緒に生活している間は問題にはならない。いま現に問題が起きているのではなく、予防やリスクマネジメントみたいな話しである。
 私はここで引きこもることの問題をわざとつくるつもりはない。引きこもっている子も、その親もいま現に困っていることは知っている。私も支援者として関わって、困ることや問題を抱えることは多々ある。だが、問題が現れてそのことと向き合えば、必ず事態はどこかへと進展する。良し悪しではない、問題を一人ではなく共有できれば事態はなにかと動く。そもそもなぜ引きこもれるのかについて、今の生活がどのようにして成り立っているのかを考えてみて欲しい。そこに何が親と子と他人で共有できる問題があるのか。ほとんど多くの場合、引きこもっている人や、その親や、その支援者も引きこもっていること自体を悪いこととして、それ自体を問題として捕え、どうすれば改善できるかをやろうとしている。だが大事なのは、今どうしてどのようにして引きこもっているかである。何か新しい別のことをやるのではなく、今やり続けていることをやめることが大切である。抽象的なことで言うと、将来の心配であったり、親の干渉であったり、先の偏重した「自立」という考え方であったり、ずっと今まで正しいと思ってやってきたことをやめる。具体的に言えば、食事の提供であったり、子ども部屋を作り続けていることであったり、本人を信じて待つことであったり、親として正しいコミュニケーションを取ることをやめる。それら多くの間違った引きこもり支援を今、まさにしている。そういう支援をしているからこそ、引きこもり続けられていることを理解する。では、正しい支援をしなくてはならないか、いや正しいことはしなくていい。ただ間違った支援をやめればいい。まず今までやってきたこと、子のためと思いやってきたことは、親の思い違いであったと伝え、誤りを認める。「あなたを愛していなかったわけではないが、親として未熟であった。あなたのことは可愛いと思い、目に入れても痛くなかったが、自立して家から出て生活するためにはならなかった」そして、子の自立にとって親にできることは何もないことを認める。なので、今まで子のためにと思ってやってきたことはやめる。子に対するお世話もそうだ。親は子に心配をかけないような自らの人生を生きる。お互いその変化には猶予期間が必要だから長くもなく短くもない期限を決める。引きこもり問題はこのようにして共有される。学校へ行くこと、就職すること、結婚すること、世間では良いことであって、なぜか正しいとまで考えられるようなことは、引きこもり問題においては間違えである。学校に行けないのは、学校に行くことを正しいことだと思い込んでいるためである。学校に行くことが間違えで、行かなければならないことでもなければ不登校でもなくなる。不登校であることもやめてしまう。問題はそのようにして表れる。そこで子や親、一人ではなく問題を共有する。不登校であるうちは、無理矢理登校しているうちは、問題を先送りにしているだけである。引きこもり続けられるのも、引きこもることを世間体の悪いものだと思い続けているからである。今やり続けていること、それをただやめればいい。そうすれば危機でもあり、機会は訪れる。  
2023年11月18日 髙橋淳敏

Panorama Theme by Themocracy | Login