NPO法人 ニュースタート事務局関西

『訪問覚書』‐訪問活動をするにあたって

By , 2012年5月1日 4:13 PM

「何をしているの?」と問われて、それに答えようとすることは難しくもあって、簡単に答える場面なら「引きこもりを引っぱりだしに行っている」と言うのだけど、それは行き過ぎた(あるいは出来過ぎた)答えのようで、私が固着した社会正義を無尽蔵にふりかざしているキャラクターに思えてか、それとも全く理解できないのか、関心なし、関わりたくもないのか、その後質問してくれた人と話が続かないということがあります。

それで、という訳でもないですが、「家族をひらく」というテーマで話をしたり、半分冗談にも「家族を解体しにいく」と答えもします。そういう切り口で話をすると、皆一様に話を聞いてみようという気になるようではあります。

「引きこもり救出活動」ではなく、「訪問活動」というからには、家に訪問するのであって、その家族の中に入っていく前提があります。そもそもSOSを「訴える」という形で表現しているのは、その家族の方なので、訪問活動においては、その前提というのを疎かにするとその活動自体が成立しないと考えさせられることも多く前提とします。

ニュースタート事務局関西の活動自体は、過去に引きこもりを経験した当人たちが家族を通さずダイレクトにも活躍する場面が多いので、その前提はないようでもあり、訪問は家族のことを前提としなければ成立しない所で特種な部分があるのかもしれません。そこで、家族の中に入っていく私たちが、その中に分け入った者として問われることは多くあったりします。そのことについては、のちに書ければいいと思う。

ただ、その家族をより善いものへと開いていく存在として、社会をより善いものへと開いていく存在として、ひきこもり当人が果たす役割は(可能性は)、ニュースタートに集まる多くの若者と同じく、その親たちよりも実際に大きい。そのような訳でも、私たちは親からその要請がある限りにおいて、引きこもり当人を引っぱり出すことに徹したく考えているのです。

「引きこもり」という言葉が、短期間に流布したのは、一般的にも皆それぞれに、似たような経験に身に覚えがあるからかもしれません。確かに、そこで理解されている「引きこもる」と当人たちが経験している「引きこもり」には大きな違いがあるように思います。それを一言でいうならば、そこには「引きこもる」という状態が長い期間、家族という関係性(家)の中で安定してしまっているというややこしさがあるとも言えるでしょう。

ですから、1人でいることが好きであるとか、人と較べて内向的な性格であるとか、引きこもりがちであるといったその人の気質や個人的な趣味や嗜好のようなもので、「引きこもり」を割りきることは出来ないと考えています。状況も様々で、当人でもなければ、少なくとも他人である私には、「引きこもり」という各ケースの理解はし難い。

そして、私たちは基本的に引きこもりの各状況を理解しに行っているのでもないと考えています。彼らが話してくれることは聞くにしても、悩みに耳を傾けることはあまりありません。言いたくもない悩みを引き出すということより、逆に話を遮ってそれでは悩みにもなっていないと問い、現実的な悩みに転じたく意見する時がある程です。そう、彼らと一緒に時を過ごすことができれば、学校に行っていなくとも、働いていなくとも、一般的な他者面した顔を恐れることもなく、1人で思考の罠や感情の起伏の中に埋没しているのであれば、出てきてみればどうだろうかと、そういう思いを抱かされることがあるのです。

ですが、私たちが彼らと接して心配ないと思うのと、彼らが引きこもる状況には開きがあり、そう易々とどうにかなるものでもない現状が多くあります。

「引きこもりを引っぱりだす」という言葉は、私たちの意志しか反映されていなく、引きこもり当人の意志がなおざりにされてはいまいか、という意見もありそうですが、私たちは出ていってはどうだろうかと、いろんな角度や形でもって、提案しに行ってるのであって、それでも彼らが引きこもることに徹するならば、それを私たちや家族に当てつけるよう意地でやっているのでもなければ、今はそうでしかないと私たちはあきらめることも必要なのかもしれない。

ただ、常にとりあえずは出ていこうとする私だからか、彼らに主張したいことが、その都度その場でいろんな形になって出てくる。それは、よけいなお世話か?サービス精神か?

服を着ることができなくて本当に困っているのなら、服を着せてあげることをやらなくもない。両手が不自由で歯を磨くことが出来なくて困っているなら、手伝うこともできる。だけど、引きこもりと言われるほとんどの人は何かをやって出来ないのではないし、むしろ平均よりも能力に長けた人もある。

少なくとも小学生時代は、周囲との違和感のようなものはあったかもしれないが、さしたる問題もなく遊んだこともあっただろう。人間関係が全くもって出来ないというのでもない。では、精神の病というようなものか?そうとも言い難い。彼らは引きこもっている限りにおいては、精神的に安定しているともいえる。そんな彼らに私たちが何の助けになろうか。

本末は転倒しているかもしれないですが、それはもう会っていくしかないとも思うのです。そこには助けるとか助けられるといった関係を超えた、生きることへの執着のようなものが露呈することもある。そのことについて、少なくとも私自身が後にでも考えさせられることがある。

そして、もし彼らが誤解していることがあるとすれば、もしかしたらそれは私たちの誤解とも言えるかもしれないが、他者や社会というものを自らの内にだけ認めようとすることにあるかもしれなく、それは他者や社会というものを自らの外に絶対的なものとして位置づけることになりかねず、そのような世界は私にとっては居心地が悪いのです。そして、そのことで彼らと対等なやり取りをするのであれば、私たちからすればそれはもう、何らかの形で彼らに出てきてもらうしかなく、そこからしか始まりもしないことがある。

2006年 高橋淳敏

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