「ともに引きこもる」髙橋淳敏
ともに引きこもる
梅雨が明け、セミが鳴く。夏が到来した。アスファルトやコンクリートに囲まれた大阪では、野外が40度を超え、日中の室温は35度を超える。もはやクーラーなしには夏を乗り切ることはできなくなった。少なくとも10年前くらいまでは、都市部でもクーラーなしという人も少なからずはいた。夏が来るたびに、こんな暑苦しい話題を毎年するわけだが、もっと昔はこんなんじゃなかった。でも、いまのこどもは、昔のことは知らないので、これが当たり前になる。温暖化した気候も「自然」ではあるが、人間が引きおこしている意味において人工的と言え、その分私たちが考える自然は、ずれ続ける。「自然」はコントロールできるものと、考えるようになったことへのしっぺ返しとも思うが、さらに進んでは、コントロールできないでいる自然は、恒常的に隔絶すべきものとして、冷房のついた部屋に引きこもるしかない。外に出された室外機本体は熱波を出し続け、密閉され風通し悪くなった建物は壁となり町に熱をとどめ、アスファルトやコンクリートは熱を反射し続ける。その悪循環で加速された温室効果である。もう逃げ道はない。新たな脅威となった「自然」と隔絶しなければならないのも自己責任だ。その隔絶がまた絶望的で、「自然」は不適合のスパイラルを辿る。誰もクーラーを提供してくれる人もなければ、社会保障でクーラーが支給されたとて、温室はさらに悪化する。思えば今年も梅雨が梅雨ではなかった。しとしとではなく猛烈な雨が降り、台風の接近が多かった。気候変動を起こしたのは人間で、前のように戻そうと考えるのも人間で、気候変動をコントロールして改善しようとするのもまた傲慢なのだろう。人が傲慢になった要因が化石燃料を基にした経済活動であるのなら、結局はそれをやめることでしかないだろう。再生可能エネルギーなどの楽観論はあっても、何十億年も前から地中で蓄積生成されてきた石炭や石油、天然ガスを止めなければ、今降り注いでいる太陽光や風力を蓄電しても、それらに適う気はしない。さらには化石燃料の方は、天候によらずローコストで無尽蔵に出てくるので経済的だ。その利権のためだけに戦争が頻発し、実現したグローバルな世界構造が崩れるのは、内部崩壊でしかないのか。ほら、今まさにホルムズ海峡が封鎖されている。
「ひきこもり」と呼ばれ続けて久しい。気候変動もそうだが、コロナ禍で世界中が引きこもることになり、その特別感はなくなった。個別に引きこもることの問題は、最初から今まではっきりとしていないが、多くの人が引きこもっても世界が大して変わらなかったことによって、個別の問題はより薄れたはずだった。なぜ以前のように経済活動しなくてはならないのか?コロナ過から脱した世界は、人々に日常生活への躊躇いをもたらした。結局は、みなが働いているから、あなたも働かなくてはならないという同調圧力からくる競争不安に過ぎなかった。皆が学校に行っているから、あなたも学校に行かなくてはならないのだ。そういった「世間」においては、原因がなくなれば「ひきこもり」は問題ではなくなる。働かなくても生活できるほどの金を持っていたり、あるいは株式や為替の取引で利ザヤを抜いたりしているのであれば、賃労働が不問にされるように。病気になれば、障害があれば学校に行くことは不問にされる。なぜ学校に行くのか、なぜ働くのかの問いはない。本題が不問にされることで、代わって「ひきこもり」は問題になる。「ひきこもり」はなぜ問題にされるのか?「働いていないから?」今生活できる環境があるならば良いじゃない。「自立していないから?」「将来働けないから?」「友達がいないから?」これらは引きこもっていることを原因にできるが、それらをやらなくてよいから、できないから引きこもると反転ができる。そして、無内容な質問と答えは食い合う。働いていないから自立できない。自立していないから働けない。金があるから働かない。金がないから働けない。働けないから友だちがいない。友だちがいないから働けない。そんな個人への問いは意味もなければ、引きこもり問題ではない。
「ひきこもり」に選んでなるのではない。その点で、職種よりも、男性女性とか、あるいは障害者などのカテゴリーを表す言葉に近いが、「ひきこもり」であることは男女や障害者ほど変えるには難しくない状態を表している。治すことのできる病気などの状態を示す言葉に近いかもしれないが、一体「ひきこもり」とはなんなのだろうか?有名になった「家族以外の人とは半年以上関係がなく、自室にこもってうんぬんかんぬん」という最大公約数的、決まり文句はあるものの、そんな標本通りの「ひきこもり」はいないし、定義自体が無意味だ。「ひきこもり」になることを選べないのは、「ひきこもり」は名指される状態だからである。例えば「いつまでもだらだらしてはいけませんよ」の「だらだら」の部分を名詞化して名指されているのである。元は動詞であり、いつだって動詞の主体である個人によって「ひきこもり」を変えることができるというニュアンスは付きまとう。だから個人が責められる。コロナウイルスが蔓延し、温暖化した「自然」から身を守るために自室に引きこもるしかないのなら、それを「ひきこもり」と名付けるのなら、あなたも「ひきこもり」である。でも、それは引きこもる個人が問題ではない。そうさせて「ひきこもり」をスケープゴートにする社会・家族・地域・会社・国家・「自然」に問題はある。ここでは「ひきこもり」を個人の問題としてではなく、社会問題として考えなくてはならない。子どもが減り、就職状況も良くなったにも関わらず「ひきこもり」は増加しているようだが、最近は「ひきこもり」個人への関心は薄れてきているかに見える。そこでは個人の問題とされている「ひきこもり」を、社会問題としての引きこもり問題へと反転させる良い機会が到来しているのではないか。社会は今まで「ひきこもり」に対してやってきたことを認めることができるのか。名指され防戦一方であった「ひきこもり」から抜け出し、引きこもり問題から今の社会や「自然」を変革していくことが可能である。ともに引きこもろう。私たちは一人一人を名指されることで、一人一人の問題とされることで、巧妙に分断されてきた。まずは、本来あったであろう関係を回復しよう。
2026年7月18日 髙橋淳敏
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