NPO法人 ニュースタート事務局関西

「父よ殺すな」髙橋淳敏

By , 2019年6月7日 11:42 AM

 引きこもり問題が20年以上経っても解決されず否定的に続いているのは一重に、社会や家族も含めたこの時代に生きた引きこもり問題当事者たちが、自分たちの時代の言葉として、「ひきこもり」以外には獲得していないからである。それでいて引きこもり問題が新しかったのは公共の福祉による法治や労働による資本依存の行政統治、学校教育や医療などの狭義の自然科学ではどうにもならないことにあった。引きこもり問題は、小集団の自治と固有の逃走劇によってしかその解決の糸口は見つからない。それが今の時代であり、引きこもりが代表する時代である。建前が通用せず際立ってきた「ひきこもり」差別を見ていれば、女性差別や人種差別、障害者差別などを思い起こすが、それらとは違ってそれゆえにこの社会に対してよりクリティカルな問題提起であるのは、「普通の人」である私たちも含めた「加害者」に対する差別であることだ。働けるのにもかかわらず働いてもいないのは、役立たずであるばかりか他人に迷惑をかけていることであって害であると名指されているのだ。「ニート」という言葉がそうであった。「ひきこもり」でないと自称する人たちは、「ひきこもり」とみなされないように、のべつまくなしに個々の生活費を稼ぐことに努め、ややもすれば蓄えいっとき安堵する。「ひきこもり」も同じである。親の資産などを鑑み、倹約しながら蓄えられないことに不安を抱いている。川崎の事件を起こした人は「掃除とか洗濯とかを自分でしているのにひきこもりとはなんだ」と同居する伯父伯母に訴えたのだった。彼には「ひきこもり」なんて自覚はなく、それは差別用語であった。今年度、政府は40歳から65歳まで統計調査をし実施し、「ひきこもり」の範囲を拡大し結果を発表した。その年齢間で61万人いるとしたが、定義も曖昧なままで、定年退職しても無関係ではおらないだろう引きこもり問題は私たちの社会の中で、たとえ今は組織の中にいても孤独を感じる人が自らに刃を向けるような様子で広がりを見せている。

 引きこもり問題とは無関係でいたい人がヒステリックに「一人で死ね」と情けなく言い放った。川崎市で起こった「ひきこもり」による殺人と自死は、中学生の時のアルバム写真しか出てこない報道を見ているだけでも、50代であった彼の長年による孤独が知れたのだった。同居する伯父伯母は自分たちの介護ヘルパーを家の中に引き入れるため、引きこもる甥っ子の相談に行ったと話していたが、それは自分たちの介護相談であって引きこもり相談にはならなかったのではないか。いずれにしても、そんな伯父伯母の家から逃げられず、居候しなくてはならなかったがために、全くの孤立無援状態が気の遠くなるほど続いてたのだろう。このような事件を再び起こさないためには、事前に彼のような人を発見し隔離するようなことは不可能で、引きこもり問題を家族も含めた身近な社会がその当事者として自覚する他ないだろう。

 続いたのは「ひきこもり」という言葉に過剰に反応して、元官僚トップの父親が息子をめった刺しにした事件であった。10年間以上も一人暮らしをさせていて、家に帰ってきた直後、一週間くらいのようだが息子による家庭内暴力はエスカレートしたようであった。逮捕された父親は「やらなければやられていた」と正当防衛を主張しているようだが、本当にそうだったのだろうか。息子が自ら一人暮らしを解消して実家に戻ってきたのは、父親を殺すためではなく自分が抱える引きこもり問題をどうにかするため父親と向き合うとした気持ちもあったのではなかったのか。小学校の運動会がうるさいので川崎市のように子どもに危害を加えると脅した発言が引き金をひいたような話しであったが、彼がうるさく思ったのはただの子どもたちの声ではなく、学校や教師たちが指導して従わせるような運動会による騒音であったはずだ。ならば学校にうるさいと一緒に文句を言いに行けばよかったし、それでなくとも元官僚の親であったのならば小学生たちに直接危害を加えるのは筋違いで、教育委員会や学校や先生を批判しなさいと咎めることはできたはずだ。向き合い方がまずいのはお互い様であろう。川崎市の事件がそうであったが、刃先が無抵抗でより弱い立場にある存在へと向かうのはなぜか。その問いは、この父親自身の問題であり、息子も誇りにしていた父親の仕事でもあったはずだ。それにしても殺害動機が小学生に刃を向けようとしたからなのか、親に向けられたからなのかで定かではなく不可解である。引きこもり問題自体を無かったことにし、存在自体を消したいとでもいうような執拗さで父親はパニックに陥っていたのではないか。これらは憶測をでないが、この事件は家の体裁から他にも相談できず、引きこもり問題を無いことにしたいと子ども部屋を遠ざけて息子だけに押しつけてきたことにあろう。察するに川崎市の事件を知って、小学生に危害を加えそうであったから息子を殺したのではなく、「ひきこもり」が差別されいよいよこの問題を家族として表にも出せなくなり、外に相談できず行き詰ったためではないか。

 「母よ!殺すな」と言ったのは脳性マヒ者(以下CP者)だった横塚晃一である。1970年代、CP者の将来を案じて脳性マヒになった幼い子どもを母親が殺す事件が頻発した。そういった事件の中で、むしろ一般には母親に対する同情が集まり、母親を減刑してやってほしいとの署名活動が盛んになるが、CP者の横塚晃一や横田弘(障害者殺しの思想)が所属する青い芝の会がそれはおかしいと抗議活動をしたのだった。彼らCP者による主張は至極まっとうであったためこの運動は波紋をよぶことになる。CP者であったことが理由で母親の罪が減刑されるのであれば、CP者は殺されてもいいということにならないか、とCP者に突き付けられた刃先が意味するところは何なのかと世間に問うたのだった。当時のその答えは優生思想であり、経済成長期下に労働者になれない役立たずを隔離排除しようとする福祉政策にも及び、障害者の自立生活運動とも相まって障害者に対する人権意識や自立が議論され進んでいったのだった。自らの生が直接粗末にされていることに憤り奮起したのだ。今回、元官僚の父親に対する「父親の気持ちも分かる」などと言う同情意見を聞いていたら、この時代のCP者の母親に対する同情意見と重なってくる。3年前に相模原市で元福祉施設職員が国のためといって重度障害者を選別し大勢殺した人を英雄視するのと、この父親の殺人を正当化するのとではいったい何が違うのか私には分からない。「ひきこもり」だったら一人で死んでいってくれと向けられた刃先の意味はなんなのか。

 当時のCP者と違うのは「ひきこもり」がむしろ我々の側にあるということだ。青い芝の会は自分たちはCP者であると巧みに主張した。そこから健常者社会に流布する愛と正義を批判できた。「ひきこもり」は自らを主張できない。それ自体が問題の核なのであり、私が引きこもり問題といっているのは、「ひきこもり」になりたくないと思っている人もすべてがその当事者であると主張するからである。この時代の愛と正義を批判することは自らの生を批判していくことでもある。引きこもり問題が顕在化した失われたと言われたこの20年、今は経済成長の時代ではない。経済成長していた時代は、特別何か手を加えなくとも成長していた時代だったのであって、現在は経済成長をしていないと不安だということで強制的で神経質に成長させようとして失敗している時代である。働けなどという筋違いの対立はやめ、発酵途上を腐らずに生きるしかない。テレビ芸人が「ひきこもり」と不良品なんかを関連付けたような発言があったが、人はそもそも「商品」なんかではない。この発言に品がないのでジョークだったのかもしれないが、不信の世界である。人を巻きぞいにして死んでいくことと対立するのは、一人で死ぬことや一人で生きていくことではない。人に迷惑をかけてでも生きていくことだ。賽は投げられた、三人寄ればの「知恵」が試される時。time is on your side.

2019,6,7 髙橋淳敏

2 Responses to “「父よ殺すな」髙橋淳敏”

  1. かなぴー より:

    とても考えさせられました。
    確かにそうだと気づきました。
    子育て中も、我が子を全うに育てる潜在的な基準は、引きこもりにさせない、生産性のある人間に育てることだったように思います。
    そして自身もそのように行きなければ、社会に貢献し還元出来る人でありたいと生きてきた、いえ現在進行形で生きていることを実感します。
    それが至上命題であらかのように。
    現代社会の暗黙の基準・価値観として、そう信じて生きている。
    これも社会によるある種の洗脳なのだと、今気づかされました。
    私たちもも、自身が健全であると思いたいがために努力して躍起になっているようで、その根底にはそうでない人達への排除意識があったのだと思い知らされました。
    その意識に一人一人が向き合い、その発想を捨てない限り、いつまでたっても今の社会に蔓延する歪みから脱却出来ないということですね。
    このような社会やそこに属する人間心理を広角に冷静に見詰め捉える意識を、私も持ちたいと思います。
    気づきを与えてくださり、本当にありがとうございました。

  2. Funabaka より:

    観点が違うのではないかという失笑を恐れずに投稿させていただきます。

    関心は、「父よ殺すな」にある元官僚の父親が表面上締めくくった事件が起こった理由のほとんどが自身にあり、自分の存在目的・理由をも崩壊するこの犯罪が唯一の策であることを自覚していたのではないかという当たり前の思いが私から離れないことです。

    テレビで護送される父親の表情は、まるで虚偽の証言を国会答弁で押し通した証人の、ある種、達成感にも似た様子が感じられました。決して、衝動ではなく全て予定された調和行為を成した如き印象を受けました。正直ここに、今までにない人の間違う恐ろしさを感じました。

    思い直してみても、自分が獲得した何か(過去と体裁と存在)を守るため、自身が自分に降りかかる迷惑や不都合を受け入れることを許さず、それでも、共に生き関わり合うことを許せない人間の楚々とした非情を越えた恐ろしさです。
    この父親が、今までと違い差別の感覚と感情をも自分の側に引き寄せた時点、そのあまりの大きさと過酷さに対し、絶望を振り捨て息子に矛先を向けすべてをリセットする行為に走ったことには単なる人の悲しみを超えた人間に抗うものを感じざるを得ません。

    それでも、この社会では「経済成長をしていないと不安」ということに関するあらゆる対策を施行する体制であること、それが社会慣習となり広がっていることの現実を考えなければならないことをことば実感できました。

    得難い機会をありがとうございました。

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