NPO法人 ニュースタート事務局関西

「ざまあみる」髙橋淳敏

By , 2025年8月16日 5:00 PM

ざまあみる

 差別は差別を生む。150年以上前、近代国家日本は欧米列強国の文明社会によって差別されることで、生み出された。「日本人」は被差別者であり、直後にアジア諸国に対する差別者となる。差別者は自らの欲望や行為である差別には気づけない。差別された人は、その差別に気づくことはできる。だが気づかないこともあるし、だいぶあとになって気づくことも多い。なので、なかなかできることではないが、被差別者が差別があったことを告発することはとても重要である。あるいは、差別された人が差別者を見返すようなことで、自らが差別する姿に気づくような人はあるかもしれない。差別とは何か、ただ生きていることを区別されることである。自らで変えることのできない出生や性別や年齢や障害、社会情勢などによって、同じことしても違った扱いを受けるならば、人が生きる尊厳は傷つく。そうだから、「ひきこもり」は差別用語である。誰だって引きこもることはあるのに、「ひきこもり」と名付けることで別扱いにされる。部屋や家に引きこもっている行為を云うだけで事足りるのにも関わらず、「ひきこもり」と云う名詞は個人を現わす言葉として生み出された。差別者は差別することに気づかないばかりか、知らずにも差別をしたがる。引きこもることは、自らで変えることができない社会問題である。社会の側に、人が引きこもることの問題がある。しかし「ひきこもり」は、個別に問題があるとされてきた。病気?障害?無気力?怠惰?無能力?特性?その差別者の無知が「ひきこもり」を教育や訓練やエンパワーメントや強制、放置などをして社会に適応させなくてはならないと云う思想に耽溺するようになった。だが本当の引きこもり問題は、教育や働き方、地域や家族のコミュニケーションの社会問題である。そして差別の本質的な問いは、差別者(社会)が被差別者(人)によって変わっていくことにある。社会が人を変えるのではない。引きこもり問題を通じて、変わらなくてはならないのは「ひきこもり」ではなく社会の側である。それなのに、ずっと「ひきこもり」個人に問題があるとされてきた。問いの立て方が初めから間違っているので、いつまでも「ひきこもり」は減らないどころか増えている。引きこもり問題が解決に向かわないのは、当然のことである。
 差別された人が、同じ考え方で別の人を差別する。弱い者がさらに弱い者を叩く。引きこもり問題の当事者は、「ひきこもり(被差別者)」ではなく引きこもり問題を生み出す社会に関わる全ての人(差別者)である。「ひきこもり」をそうではなくさせたところで、元「ひきこもり」は再び差別を生む。「ひきこもり」が差別者になったところで、「ひきこもり」を生み出す社会は強化され、「ひきこもり(被差別者)」を新たに生み出す。かといって、差別者(親など支援者)を糾弾して、できもしない謝罪をさせたところで、差別は止まらない。差別を再び生み出さないためには、最もみじめな差別され差別をする自らのざまを、協力者と共に見返すことが必要ではないか。協力者が「ひきこもり」と名指された人(被差別者)で、差別者が自らを知ることにこそ、引きこもり問題の解決はある。差別している自らの姿を、引きこもっている人の協力をもって見返す。差別者にとって、差別をした側に問題があることを、理解するのは困難である。あなたが「ひきこもり(被差別者)」であるのならば、差別者に協力してあげないと、あなたも差別者になるかもしれない。いや、あなたが引きこもることになったのは、差別者になり損ねたからなのかもしれない。一度差別された人に対して、「差別はいけない」などの道徳や禁忌は抑圧としてしか通じない。引きこもっている人は、現在進行形で「ひきこもり」差別をされているか、そこから逃避しているが、差別者である親も支援者も差別をされたことがある被差別者でもある。「ひきこもり」差別がない社会にしていくためには、引きこもっている人が協力者になるか協力者を得ることによって、「ひきこもり」差別をする醜い社会をざまあみろと顕在化させればいい。自らが引きこもっている状況から脱していくことと、社会の引きこもり問題が解消していくことは、同時にしか起こりえない。個人化した「ひきこもり」を問題とする社会の夢物語は、新たな差別者(社会の適応者)を生み出すことしかできない。
 あるポピュリズム政党が「発達障害はない」と主張した。彼・彼女らの主張は即席で戦略的なのでつかみどころはないが、引きこもり問題を考えるにあたって私が対立していた「親学」を党代表者が推進していたようで、その主張をなんとなくではあるが私は翻訳することができる。要約するに、彼ら・彼女らは教育勅語なのか戦前教育によって、発達障害になる子をなくすことができると言いたいのだと考えられる。端的には戸塚ヨットスクールなどに似た精神論とか、根性論である。戦後の個人主義的でリベラルな教育や、特には反差別などの戦後民主的な教育によって、発達障害者は作りだされたと言いたいのだろう。私はかつて「発達障害のうそ」を書いたことがあったので、彼らの云う「日本人」差別被差別者と同じ立場からの全く違う考えとして、彼・彼女らの主張が間違ったものとして理解ができる。彼・彼女らは教育や社会を先んじて変革か復旧をし、再教育することによって人を変えようとする。正しい教育が先にあって、個人を変える。自らが差別者(日本人)であると主張して、多数者が割を食う社会はおかしいと被害者面をして、少数者や外国人や障害者や女性を差別する。そうやって近代差別社会において落ち目で、だが落ち切りたくはない中間層のコンプレックスを刺激している。仮に彼・彼女らのやり方でやるならば、引きこもる人は倍増するだろう。それか、戦争になってこの国が再び更地になるか、たぶん行きつく先や、狙いはそっちなのだろうが。

2025年8月16日 髙橋淳敏

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