突き抜ける
俺はどうしたらいいのだろう.自分の今の状態が耐えられなかった.今の状態とは,ひきこもっている状態で,何もしようとしない,働くマシーンとしてこの資本主義社会に参加できない,いわば生ける屍のような状態のことだ.親達はそんな俺を罵倒する.そんなやつは俺の子じゃない.いつまで甘えてるんだ.おまえは何歳になるんだ.俺のその頃はもう結婚もしていたし,おまえもいたぞ.
そう,父親は大学教授,母親は中学校教師.出会いのきっかけは大学のクラブであったようだ.両親は国のために働き,それが当たり前のようである.事実,彼らは,貧しく,俺を養うために一生懸命になって働いてくれたようだ.そんな両親を鏡にし,俺は周りがサラリーマンという同級生を尻目に,ただひたすらキャリア官僚になるため学問の道を追求することになる.5段階評価の5以外は成績ではなく,5をとっても当たり前で,誉められることなどない.成績が学年で一桁にいることは,俺の生きがいとなり,その順番が人生の,そして人格者の順番と考え,学校の成績の悪いやつなど生きる価値がないとさえ思っていた.そう,俺の人生は大学に行くまでは順風満帆といえよう.女にも興味が湧かなかったし,およそ勉強に関係のないことから自分を遠ざけることに成功した.そして,官僚の登龍門T大へと行く予定であった.
あれは,忘れもしない,センター試験の一週間前の日だったか.俺はいつものように,学校が終わって塾に行く自転車の道すがらであった.,俺は急にトイレに行きたくなり,寺の境内から少し離れたところのトイレにかけこんだ.そこには,サングラス越しに目をぎらつかせた男が,女子大生であろうか,20歳位の女性に刃物を向けており,女性は上半身裸になり,今にも男に犯されそうになっていた.その情景を見た瞬間俺はびびって,腰が抜けた.しかし,震えながらも大声で奇声を発すると,男は素早くズボンをはき去っていった.それから後のことは覚えていない.気付けば家の蒲団の中で震えている自分がいた.
それから後,俺はその情景が頭から離れなかった.男のやったこと,刃物が怖くて怯えていたのではない.襲われていた女子大生の剥き出しになっていた上半身にある乳房や,彼女のあの泣きじゃくって怯えた顔に,理性が吹っ飛ぶような興奮を覚えていたのである.それからの俺は気が狂ったように女性の裸の画像や写真をむさぼり見た.そのことしかもう考えられなかった.こんな状態ではセンター試験どころではなかった.俺は,センター試験のテストの間,会場で魂が抜けた抜け殻のような状態でかろうじて椅子に座っていられる状態で,問題文など頭に入らなかったのだ.
平静さを取り戻したのは難関私立のW大の入試が始まるくらいの頃であった.現役にこだわっていた俺は浪人してT大を狙わず,W大をすべり止めにしており,合格し入学することになる.
入学の季節になり,入学式の後学校に戻ると各クラブ,サークルが新歓コンパをやっており,俺も何の勧誘かも分からず,ただで飲み食いができるらしいと聞いて,行ってみることにした.男と女の比率は半々といったところだった.彼彼女達は,何か話をしている.この間の映画はどうだこうだ,洋楽の誰々はいいよね.宇多田ヒカルがどうのこうの….
はっきり言って俺には,彼らが何を言っているのかさっぱり分からなかった.世界史の人名でも言っているのかと思ったが,違うようだ.しかも,彼らはお酒を初めてでもない風に余裕で飲んでいる.俺はというと,法律を守ることをモットーとしているので20歳未満は飲んではいけないことは当然であるし,中には身体に悪いタバコを吸うやつまで現われた.一体ここはどこなんだ.俺は無法地帯に来てしまったのか.こんな不良とは付き合えない.大学はどうなっているんだ.T大でないと,やはりいけなかったのか.
まさか授業まではおかしくないだろうと思って,初講義に出てみた.キャンパスには茶髪にロン毛が溢れていた.講義の途中で出て行くやつ入って来るやつ,寝るやつ,私語するやつ.ここも無法地帯であった.
それからの俺は,家で自習する事にした.学校内に不良がいたのではどうしようもない.カツアゲもされかねないし.
学校はテストの期間に入り,自学自習で臨んだ俺に比べ,過去問を先輩から仕入れてくるやつ,カンペを作ってくるやつのほうが成績は良かった.不思議な世界だ.俺には理解できない.何であんなやつに負けるんだ.
そして俺は学校に行かなくなった.というより,行けなくなった.成績が悪い自分という存在が信じられなかった.挫折というのだろうが,全く挫折という気がしなかった.
ひきこもってから,もう4年経つ.国家公務員試験も受ける気がしなかった.世間というのは,裏があるというのを知った.外務省幹部も横領を繰り返していたし,政治家も平気で言った事と違う事をやる.しかし,4年もひきこもるといろいろわかってきた.自分自身も弱い存在であり,強い権力を持つと不正を犯しやすくなる事.勉強以外に大切な何か,それは人間関係だろう,そして趣味というものを持っており,そのためには生活費を削ってでものめりこんでいくこと.人間とはこんなちっぽけでかわいい存在であったんだなぁ.
あの寺のトイレでのことは親には勿論,友達にも言えていない.今となれば大した事はない出来事だったと思う.だが,時々何かをきっかけとして,ふとよぎる.今は女性の裸体の事より,男の怖さ,ナイフの輝きの方が恐怖として出てきている.
結構世の中がわかってきたが,依然として何も動けない.そして,働かなければという呪縛と,どこかで捨てられないエリート意識が交錯している.
俺は死にたくないんだ.でも死にたいと言わずにはいられない.社会は思ったほど悪くないのだろう,俺が何か突き抜ける必要があるのだろう.
ユンゲスト