道化師トン
トンは,偶然この部屋にいるのだと思っていた.この状況が長く続いているのは,偶然といわれるこの部屋を,必然的な何かに変えることができないからだと考えていた.要するに,この部屋にいる必然的な理由を見つけることができたなら,それを早いことかたずけてしまうか,あるいはそれから逃げるかして,この部屋から出ることができるわけだ.きっとそういうことなんだろう.
しかし,この部屋にいる確かな理由は見つからなかった.もちろん,それらしい理由を考えたり,この部屋では見つからないのだと,外に出ていったことはあった.だけど,何度となく,この部屋に引き戻されてしまうのだ.偶然とは何にも変えがたい引力なのだろうか.
ためしに,トンはこの部屋にいる必然的な理由について,考えるのをやめてみた.それは,ズルズルとどうしようもできない日常を量産していった.そしていつからか,戻ることのできない洞穴の深い部分まで来てしまったようだった.もうどうあがいてもここから出ることなんてできないだろう.ましてや,あがき方もわからなくなっている.
ある章の終わりで伏せられた数冊の本,しわくちゃの空色Tシャツ,繊細な裸のCD,弦が1本ずつ切れた2本のアコースティックギター,譲り受けたボールペン,映画のパンフレットが捨ててあるゴミ箱,きゅうりの値段やらアンドロメダ星雲までの距離が書かれたメモ帳などが部屋に散在し,長い間動きは止まっていた.
ものの配置は全く変わらないが,一定の波長を持った生活感が部屋にはあった.それは,トンが生きているという証拠のようでもあり,ものとものの有機的なつながりである.
ものとものの狭間に身を置くことがトンの日常であった.トンは,ものに触れずとも,文章としてとらえなくても,狭間を産み出し続けることができた.テレビの中の手品師が,指と指の間からカードを放ち続けるように.それにはタネがあるはずなのだ.
しかし,タネを知ることが容易ではないことをトンは承知していた.悪夢がその人にとって,何を示唆しているのかわかるのと同じぐらい,とりとめのないことであり,難解なことなのだ.それよりも,タネを知らないと認めてしまった方が,その手品は幻想的で楽しいものであった.そして,この部屋に次々と溢れ出る狭間を,恍惚として見送るのである.
200年後,埋まってしまったこの部屋が掘り起こされたとき,完全に色褪せたこれらものともののつながりから,タネを忘れてしまった手品師の姿を,誰かが想像するだろうか.トンはそのことを空想していると,スコップを手に持って掘っている人間が,ピエロのような道化の格好をしていて,笑ってしまうのであった.
彼は埋まっているものを使って,あらゆる芸をしてくれるに違いない.割れたローリングストーンズのレコードや使われることのなかった新品のパジャマ,若いころに書かれたであろう作者不詳の詩集を使って,三つのお手玉のように廻してくれるかもしれない.そしてそこには,トンの考えつくこともできない,もののつながりがあるように思えた.
不揃いな間隔で,小さな耳鳴りのようにベルの音が遠くで鳴っている.外では雨足が強くなってきたようだった.雨の匂いがした.いずれも,トンを訪れにきたのではない.黒く四角い枠の中では,飛鳥時代の遺跡が発掘されている映像が映しだされていた.枯れた土を刷毛のようなもので払っているその表情は,不気味なほど真剣であった.
掘り起こす人間として妥当なのは,眉間にシワをよせたあのような学者ではないだろうか.そう考えるとトンはまるで,本当に埋められてしまったように重苦しい気持ちになった.部屋中のものが一つ一つ切り離されて,博物館に並ぶことを思うと胸がしめつけられるようであった.いくらあのように丁重に扱われたとしても,学者に掘り出されてはならない.もしそのようなことになれば,ものは勝手な解釈の下,白昼にさらされることになるだろう.それは理解とはほど遠い場所だ.ものとものの狭間に蓄えられたトンの記憶が,掘り起こされる機会を失うことである.いつか気づかれるだろうという思いとともに永遠に埋まっている方が,どれくらいましかしれない.
しかし,この部屋から学者を引き離そうとするのは大きな矛盾を含んでいた.トンは,つまらないことから意地を張り続けなければならず,学者特有のうるさい沈黙を身につけ始めていたからだ.
意味ありげな,言葉のいっぱいつまった沈黙がトンを囲んでいた.泉の音や,新聞を見開く音,遠くを走る電車の音,そのような音が沈黙を形作っているはずなのに,これみよがしの沈黙だなんて,つづけざまに不細工な音楽を聴かされているようでもあった.
突き放そうともがけばもがくほど,学者はまとわりついてきて,必要な音を遮断し,いつも似たような音符に置き換えた.トンは叫びたかった.しかし,叫び声は誰に対するものでもなく,沈黙をやぶることもできない.沈黙でできたマットに緩やかに返されるだけであろう.そして,トンは沈黙によって手厚く返されるであろうその声を恐れた.
気がつけば,部屋の観葉植物が,古い葉ばかりを残して,新芽だけが抜け落ち,床が1cmほど埋め尽くしている.このような沈黙の中では,観葉植物でさえまともに育たないらしい.このままでは,この部屋は埋まってしまって,バラバラにされてしまいそうだ.
行き場を失ってどちらにも寝返ることができなくなったトンは,とんでもなく大きな音になっていた秒針のリズムに身をよせて踊った.いろんなポーズをとり,限界までバランスを崩そうとした.トンの動きが激しさを増すにつれ,部屋に散在しているものがより複雑に配置されていく.
一人で踊っているのもつまらなくなってきたトンは,指揮棒代わりに使っていた筆で絵を描き始めた.この部屋の絵をこの部屋の壁に描いた.
壁一面に目一杯大きく部屋の絵を描きながら,トンはあることを考えさせられることになる.そう,描いた絵にも壁があったからだ.部屋の壁には部屋の絵があるのに,絵の中の壁には部屋の絵がない.これでは絵として完結したことにならない.厳密にやるならば,描いた絵の中の壁にも,部屋の絵を描かなくてはならない.そして,繰り返し現れる絵の中の壁に,だんだん小さくなる部屋の絵を描いていかなくてはならない.それは,いつしか消えてなくなってしまいそうだが,永遠に続くと思われる同質のものの繰り返しだ.
その先には何が映るのだろうか.テレビカメラでテレビを映し,枠の小さくなったテレビが,連凧のように連なっていく三次元映像.無機質なものの連続体の果て.父親の運転する車の助手席で入っていったトンネルは,どこまでも続くようであった.トンネルを抜けた時の景色は,いつもトンの満足するものではなかった.長く長くどこまでも続くトンネルを走り続けてほしかった.辿り着くところはなくてもいい.できるだけ長い間,等間隔に並べられたオレンジ色の照明を通過し続けてほしかった.
トンは正確に部屋の絵を描き続けた.部屋のものは同じ構造で,同じシワと影をもち,ただ小さくなっていった.小さくなりすぎた壁に,絵を描くことは骨の折れる作業であったが,トンは力みすぎないことにも注意を払い,できる限り精密にこなした.
そのうち部屋が収斂していく一つの点が,予測可能なものとして現れた.そしてついにトンは壁に描いた部屋の絵の終着点を確かめることになった.
トンは,絵の全容が見渡せるよう,向かい側の壁にもたれて腰を下ろした.その点はトンにとって,希望を与えるものでも絶望をあらわすものでもないようだった.
しかし,トンが期せずとも定めた点,トンがいなければ実在しない点であるということが,トンを不思議な気分にさせた.はじめからその点が定められていたわけではなかったのだ.にもかかわらず,トンの行為は全てそこに向かっていたようでもある.
遠近法を使って描く時,最初にきめるその点を,予期せずあばいたような感じがした.解けると思われていた難しい問いを,全く違った次元から解けないということを証明できた,そんな驚きでもあった.しばらく,どこまでも続くトンネルに入っていけるような高ぶりをおぼえ,視点を定めぼんやりと壁を見つめていた.
どれくらいたっただろう,ひょっとすると季節は一つぐらい通り過ぎていってしまったのではないだろうか.でもそのように感じただけだろう.きっと.......
部屋の空気が乾いていた.のどもひどく乾いているようだった.のどの奥の方がうまく締まらない感じがして,声を出そうとしたが出せない.
咳払いに近いことをしようとしたその瞬間,トンの主体は壁に描き出されたその点に移動した.そこから,小さな手鏡のような丸い枠の中に,明るい部屋が写し出されているのだった.はるか遠くのトンネルの先が見えるように.それでいて,顕微鏡を覗いているように細部がクローズアップされている.まるで遠近感はデタラメであったが,はっきりとトンのお気に入りのものたちが映った.たくさんのものに埋もれたトンのからだは,うなだれ転がっている.頭の先から足の先までかかっている重力に対してどうしようもできないでいるからだは,夏の陽射しの中,干涸びたように寝ている動物園の北極グマをおもわせ滑稽であった.薄く開いたまぶたの奥の黒眼が,トンのからだよりも大きかった.
妙な感覚だった. トンは,今までにないほど力が湧いてくるようであったのに,向こう側の自分のからだは死んでいるように動かない.どんどん放出されていくエネルギーが,自分のからだとうまく結びつかないのだ.
行き場のなくなったエネルギー体は,ドーナツのように穴のあいた円形の固まりとなり,猛烈な回転をし始めた.そして,部屋中のものを次々に吸い込んでいった.そのうち,トンのからだはわずかな反応をするように,末端部分から少しずつ動き出すのであったが,吸い込む力は圧倒的で,その抵抗は弱すぎるようだ.何回か,からだが浮いてズルズルと床をすって移動する.腰だけが床についているが,からだ全体が浮いてしまうのはもう時間の問題であろう.最初は浅瀬で溺れているようだったので,その状況を少しでも把握することができたなら,立派な抵抗ができただろう.じたばたと動きだした腕は,何度となく空をきり,近くにあるドアの縁にしがみつこうともしない.その歯がゆいまでの抵抗を見限るように,ドーナツの回転は速くなり,光を放ちだした.もうダメだと諦めたその時,ドーナツ状の物体は高く唸る音とともに,しかし最後は静かに拡散した.
トンは部屋が描かれた壁を背にして座っていた.西陽の差し込んだ部屋は暖かい輝きをもって,一つ一つのものの輪郭を綺麗に縁取っていた.トンが日頃から洞穴の中だと疑わなかったこの部屋は,トンネルの入り口,もしくは出口にあるようだった.まるで大きな台風が去った町中に落ちているもののように,それらはもとあったところにあるものではない.しかし整理しようにも,散らかっているものたちは,それぞれがつながらないジグソーパズルのように,何を意図して形になっているかトンにはわからなかった.それぞれが,あらゆる風景の最後の1ピースであるようで,どんなに向きを変えようともおさまらない.そんな異質で存在感あるものに囲まれてトンの所在はなくなり始めていた.
高橋 淳敏