深緑の部屋
湿っぽい閉塞感のある深緑色の空間に立ってしなだれていた.足首から下は根っこが生えているらしく埋まっていて,軽い前屈姿勢で頭を垂れている.ほうり出された腕は細長く,その末端に手があることを確認できない.
体にかかる重力は根の先端部分に分散されているのか妙な浮遊感があり,このような姿勢を保っていることに不快感はない.むしろ,今までずっとこうしていたのではないか.部屋らしきすべての面には,苔よりは少し背丈のある植物に覆われている.
濃紺に彩られた全身.ただ,背中から後頭部にいたる丸みをもった曲線部分が冷たく,蛍光灯のような白い光を帯びていて,この部屋が全くの闇である必然性から逃れているようであった.
それが夢なのか現実なのか考える時間があった.しばらく,暗闇に光る携帯電話の画面を見つめていると,とうとつに明かりは失われた.再びボタンをおし,画面の中で時刻を確認すると夜中の3時を過ぎていた.冷たく心地の良い外気が部屋に入ってきている.彼から受けたメールの文章を捕らえようとして,先ほどまで見ていた夢の断片にもっていかれたようである.
全身の力が抜けていく.布団に入りメールを読みなおす.「底はすぐそこにあるじゃないか,そうかおれはまだソコにたどり着けないのか.もっともっと深く落ちていかないと」.
近況報告と題され,追伸にはていねいにも漆黒の闇の中にこそ,光は射すのだろうか,と書かれている.ソコへの距離はどうも彼と僕との距離よりも遠いようだと思い至ると,そのメールに対し返事をする機会をなくしてしまった.
大学の卒業はあらゆる種類の選択をせまった.僕は,去る理由はなかったが,その地を離れることを選んだ.今思い出されるのは,幅の広い道路,ゆとりのある構えをした住宅地に厚く降り積もっている雪が,街灯を反射し町全体が淡いオレンジ色をしている,その美しさに対する何かである.
その点,彼は何も選択しなかった.選択をしないという意志をもった選択でもないようであった.その地に居残り見送る側になり,身の振り方が決まっていないのにも関わらず,卒業式の謝恩会の幹事役を請け負った.彼はその役によって,別れを直接伝えなくとも,謝恩会に参加することができたのかもしれない.
その後の飲み会は違う人が仕切り,カラオケでは誰も彼の歌に耳を傾けなかった.その日の彼の表情は,別れから直接くるものではなく,別れを考えようとする自身の中での苦悩に,終始彩られているようであった.
敷き布団の上で,夢と現実の間を何遍も行き来する姿は,まるでイモ虫のようである.何回も時間を確認するため,もう昼過ぎだということは分かっているが,抜けだせない.その境界で思索は自律しはじめる.*****もはや生きることは意味づけられた.あらゆる道が用意されている.道なき道をいったところで,地図に載っているどこかに辿り着いてしまう.希望は目に見える形で示され,同時に失われた.使用法によって意味は決められていて,歴史によって逆らうことも意味づけられている.意味あることは無意味だ.無意味だろうが没入できる何かが必要なのだ.しかし確信的に臆病である.人のために生きることはできない.自分のために生きることはうんざりだ.この身をさらして,傷つけられるまで待つしかない.夢は悪意がなく傷つけてくれないではないか.意味をなすと思われる総体が,僕を無目的に布団の外へと追いやった.
布団を出たついでに,近くの川に自転車を走らせた.さびれた工場地や,その関係者が住む集落といった感じの住宅地が,低く立ち並ぶ区域を過ぎると土手が目の前に現れる.
私はいつものように,立ちこぎで上までのぼると,その川と郊外にポッカリとできた広がりを見渡せる.休日ということもあって普段より人出はあるが,散歩やジョギングで通過する人がほとんどで,とどまる人は少ない.
土手を降りてコンクリートで整地された川岸に腰をおろした.しばらく雨がふっていないので川は浅くなっているようだ.すぐ先ではひざまで水につけた,二人の少年が網で魚をとろうとしている.魚がとれないらしく文句をいったり,魚が水面を蹴るとあっちだそっちだといっている.
50メートル程離れた向こう岸では,若い人たちが数人集まってエンジン付きの模型飛行機を操縦している.模型飛行機は,テレビで見る空中ショーのように,空を背景にして本物そっくりにアクロバティック飛行をしているのだが,そのエンジン音は迫力に欠けなんだか間が抜けている.そのアンバランスさにつけいる隙があったのか,飛行機の描く軌跡が,雲一つない青空を切れ切れに形作っていくのを頼りに彼のことを思い返した.
彼は突拍子もないことを見せつける道化を演じるときがあった.タバコを舌の上に押しつけて消してみたり,体にできたイポを人前でねじりとってみせた.会話においては,大して主張したいことがある訳でないだろうに,言葉じりをつかまえては異義を唱え言葉をややこしくすることが多かった.そして,話が横道をそれたまま進むと,彼は自身の破たんを説明することになる.会話の決着をはなから当てにせず,自らメランコリックな状態に陥ったり,それを表したりすることは,笑いに転ずることもあったし,仲間意識を喚起するところもあったので,その効果を狙うのは彼一人ということではなかったが,彼のは内容を選ばず無差別かつ大胆であった.
それを知ってか恐れてか,僕は彼と話すことをあまり好まず,もしくは緘黙する時間を求めていた.そんなとき,単調な遊びを延々と何時間も,時には十何時間も二人でやっていたことがあった.そしてきまって最初に音をあげるのは僕の方であった.
飛行は順調なようであった.着陸まで一丁前にこなした.次に二機目が飛び立った.視点を定めることなくボーとしていると,突然エンジンの高音が強調されたのをきき,模型飛行機は網膜にきれいな放物線だけを残して,まっ逆さまにブチャという鈍い音をあげて,目先の水面に墜落した.
落ちた模型飛行機をどうしたものかと見つめていると,魚をとっていた少年達が,向こう岸の様子をうかがいながら飛行機に近づき,見下ろすようにして立っている.向こう岸からの,陸にあげといてくれという指示があり,恐る恐るといったふうに,抱きかかえこちら岸に運んだ.少年達は壊れた模型飛行機を砂の上におくと,それ以上触ることなく少し距離をおいて魚とりを再開しだした.その機体の前方部分は,大きくへこんでいたが,飛行機としての形はとどめていた.
あいにく向こう岸とこっちを駆ける橋はずいぶんと離れていて,どうも自転車もないらしいので,持っていってあげようかと考えながら,向こう岸の動きを観察していると,一人の青年がズンズンと川に入ってこちらに向かってきた.
もと来た道を帰り,彼に手紙を書く.深緑の部屋で夢の続きを綴った.
手の先をよく見ると両手で刃物が握られている.
両腕と胸板によって形作られた二等辺三角形.
親指のつけ根が頂点となり,胸の底辺に対して垂直に刃物が下ろされている.
その鋭利の先に衝動がある.
鋭角な二等辺三角形が鈍角になるにつれ,刃先が底辺を突き抜ける.
骨は邪魔せず,血は流れず,肉だけが境界に丸みを残して裂けていく.
刃先本来の仕事量に達すると,肉は弾力を失い,動きはもてあまされる.
衝動は傷つけられず.
たかはしあつとし (サポーター会議会員)