自分で自分が何であるかを決めた頃 - 12
翌々1972年,私は大学入学8年目を迎えていました.大学は最大限8年間在籍できるようになっていました.そして,半年一期分の授業料を三期分滞納すると自動的に除籍されるという決まりになっていました.1972年の夏,三期分の授業料の滞納が告知され,その納入期限が迫っていました.私はその頃はもう貧乏学生ではありませんでした.だから授業料滞納で『除籍された』と書くのは事実に反しています.
私は学生の身分でありながら,あるビジネスに手を染めていました.大学に関連する学生ビジネスであり,私が始めたのではなく先輩たちから受け継いだビジネスです.小学校の時代に学校に行かず,さまざまな仕事をしながら家計を支えていた私には『お金儲け』の方法は生きるための技術であり,裕福な先輩学生たちよりもはるかにシビアにそのビジネスを運営していました.多くの後輩の学生たちにアルバイト料をばらまきながら,自分自身もそこそこ優雅な学生生活を送っていました.三期分の授業料を納入するくらいは実は何でもないことでした.
私は大学の8回生であり,元大学新聞の代表者です.私がしていた学生ビジネスというのは大学に取っても必要な事業であり,ある意味で私は国立大学の総長(京都大学の場合当時,学長のことを総長と呼ぶのが慣わしでした)に対しても意見や要望を言える立場でした.8年間の間に何代かの総長が代わり,そのどなたとも親しく口が利ける立場でした.学内事件で起訴されたこともみんなが知っており,大柄な私はある意味で学内の有名人でした.学生部の職員や学生部長であった法学部教授は本気で私に卒業を勧めてくれました.本気であったかどうかは別にして,不足している単位は『私が頼んで何とかしてやる』とも言ってくれました.
卒業をするのかしないのか,しつこいようですが,それが『自分で自分が何であるかを決める』最後の決断でした.
既に私の裁判は進行しており,後輩の学生たちが『裁判闘争支援委員会』のようなものを作っており,公判のたびに傍聴に詰めかけてくれていました.『被害者』は『大柄な被告に殴られて,私は5〜6メートルも吹っ飛び,壁際まで飛ばされました』と事実でもないことをさらに誇張して証言しました.支援学生からブーイングが起き,裁判長はそれをたしなめます.傍聴の支援学生の中には事件当日の現場に居合せたものもいて,私がそのような事をしていないことは知られ
ていました.
しかし,私は言い訳じみた弁解も,個々の事実の否認もしませんでした.私は既に自らこの事件の責任をとることを選び取っていました.それはもちろん,全共闘学生たちの行為の全体的な『正当性』の主張であり,同時に事件から10年後に下される『有罪実刑判決』の引き受けでした.
私はこの時点で,ある意味でヒーローを気取っていたのかも知れません.ヒーローが大学の先生に頭を下げて単位を集め,お情けで卒業するなんて格好の悪いことです.ついに私は在籍7年半で京都大学法学部を除籍になりました.
小学校を中退して『不就学児童一掃運動』で中学に編入された男が,またもや大学を中退することになりました.正確には<中退>ではなく<除籍>ですから学籍簿からも除かれており,≪入学≫した事実すら抹消されているらしいです.まあ,そんなことは今更どうでも良いのです.
もちろん,貧窮の中から国立大学に進んだ私の将来を父母たちは楽しみにしていました.大学を中退し,尚かつ被告人である立場を甘受している私は大変な親不孝をしたことになるでしょう.しかし,そんな性格を実は私は父親から引き継いでいました.父親を愛していました.4回生のときに卒業し,就職していれば父にある意味での『晴れ姿』を見せることができていたのかもしれません.
父親はこの頃,既にアル中状態で,正常な判断力を失っていました.父が正常さを失ったのは,明らかに私の逮捕の後でした.母は,どんなことになろうと私の選んだ道を支持してくれました.ある意味で,貧困の中での苦闘も逮捕の栄光も『お前の選んだ人生だ』だと突き放していました.
こだわり続けるわけではありませんが,私の選択はあの『城壁』に対する態度でした.『城壁』の中に潜り込むのか,『城壁』の外側にいつづけるのか?そのとき私は壁の外を選びました.
2002.9.26
にしじま あきら