自分で自分が何であるかを決めた頃 - 7
三ヶ月の受験勉強で大学合格というのはいかにも自慢話のようですが,実はこの手のやり方は,私は以前に上手くやった経験があったから二匹目の泥鰌を狙ったのです.小学校に通わずに『勉強に対する飢餓状態』だった私は,いきなり中学に入ることによって,乾いた土に水が染み込むように知識を吸収しました.あの頃の『勉強法』の再現を狙ったのです.まんまとうまく行きました.おそらく私は,他の同級生のように高校2年の頃から受験勉強などを始めていたら途中で息切れして,受験を放棄することになっていただろうと思います.
昭和39年(1964年)に大学に入った私はまず学生生活を維持できるだけの経済的な基盤を,自ら作らなければなりませんでした.前に書きましたように中学に入る前に私が始めた露天の駄菓子屋業は,やがて我が家の家業になりました.日払い家賃ながら店舗も借り,子どもたちが学校に行けるようになって元気を取り戻した父と母がこの駄菓子屋業を引き継ぎ,何とか辛うじて生計を維持できるようになっていました.もちろん,中学・高校時代の私もこの家業を手伝い,それ以外のアルバイトにも精を出していました.しかし,大学生になった私の学費や生活費を捻出するほどのゆとりは我が家にはありませんでした.まして弟妹たちもまだ中学生や小学生で育ち盛りでしたから,わが家業は家賃や食費をかせぐだけで精一杯でした.
私は大学入学当初,家庭教師のアルバイトに専念することにしました.週に5日,日曜日には2件かけもちの家庭教師を合計6回こなしました.高校時代から日本育英会の特別奨学金を受給していましたから,それで何とか学費や生活費が捻出できるはずでした.もちろん,大学生になってからのお金の苦労話などするつもりはありません.一応,学生生活をエンジョイする気持ちも旺盛で,教養過程の講義を目一杯受講し,その上で週に6回の家庭教師に走りまわりました.
大学入学の一ヶ月後,講義にも慣れ,アルバイトにも慣れた頃,私にも『5月病』が襲ってきました.はじめの頃,目を輝かして受講していた教養部の講義が急速につまらなく思えてくるようになりました.大学の教授たちはたしかに高校の先生とは違って,私の知らない学問の世界に誘ってくれようとしているらしいのですが,講義の大半はノートの棒読みで,90分の講義中,学生の顔を見まわしたり,質問をしたりする先生はほとんどなく,教授たちと一言の言葉も交わすことなく,教室を移動します.語学の授業の仲間は一応クラスメートで,語学担当が担任教官のような立場ですがこれとて高校時代までのような担任の先生のような気配りがあるわけではなく,しかも語学の授業はほとんど自治会系の左翼学生が授業に介入しアジテーションを行ないます.教授もそれを見て見ぬふりをしているだけで,一言も発言しません.左翼学生運動が正しいかどうかは別として,無言の語学教授たちに対する尊敬の念などが雲散霧消していったのは事実です.『5月病』についてはさまざまな原因と症状がありますが,その深入りもここでは止めておきます.
私は『5月病』に深く囚われるのを避けるために,生活のスタイルを少し変更しました.家庭教師の日程を一日減らして,土曜日も2件の家庭教師をかけもちにしました.アルバイトのないウイークデーが一日増えました.その代わりあるサークルに参加することにしました.京都大学新聞社という学生新聞の編集発行サークルです.サークルとは言ってもブランケット版8ページの新聞を毎週発行するのですから課外活動の域を越えており,講義受講も放っぽり出して取材に走りまわったり,原稿を書いたりしなければなりません.その代わりサークル活動なのに『ペイ』と称する活動手当てが,わずかだが支給されました.その『ペイ』とサークルで出会った友人が私を居酒屋に出入りする習慣に誘いました.
2002.9.19
にしじま あきら