自分で自分が何であるかを決めた頃 - 5
その頃,私の心の中にあった『城壁』という障害物の感覚を伝えるために少し紙数を費やしてしまいました.紙の原稿ではないのでこう言う場合『メモリーを浪費した』と言えば良いのでしょうか?
さて『城壁』は釜が崎の境界に建っていたのではなく,私の心の中に建っていました.引きこもりの若者の,心の中にも『バリケード』が築かれており,それが彼らを外界と遮断してしまっています.引きこもりの若者の,心の中の『バリケード』(直言曲言『心のバリケード』参照)と私の『城壁』とは少し違いますが,どちらも心をひしゃげさせるような重圧であり,なかなか自分で取り除くことのできない『見えない壁』であった点は共通しています.
『城壁』は私の中学入学によって急速に取り除かれました.しかし,十数年後に私はもう一度『城壁』について自問することになります.そのお話をする前にあまりメモリーを浪費するのを避けるために,私の中学時代や高校時代の6年間については,できるだけ駆け足で通り過ぎることにします.
私の中学時代は奇妙な三年間でした.しかし,簡単に言うと要するに優等生の中学時代でした.最初は戸惑いました.何しろ小学校の高学年を体験していません.音楽の先生が突然,ピアノで小学唱歌を演奏し始めます.周りのクラスメートたちは当然小学校時代に習っている歌なので歌い始めます.私は釜が崎の浮浪児だったので,大人たちの歌う演歌には精通していましたが,小学校高学年でみんなが習った歌など知りません.筆で文字を書く習字の時間や,水彩絵の具を使う美術の時間,それにローマ字を習っていないのに突然始まった英語の授業にも戸惑いました.これらの科目の,最初の授業のときは本当におしっこをちびりそうになるほど緊張しました.しかし,2回目からは実際には中学校の習字も美術もそれほど高い技術を要求するわけでなく,英語ももちろんアルファベットくらい読めましたからすぐに慣れてしまいました.
それよりも,私は長いこと学校に行けず,学校で学ぶということに憧れていましたから私の授業に対する態度,先生方の教えてくれることに対する吸収力は,周囲の同級生たちを遥かに凌駕していました.私は中学一年の,一学期の中間テストのときにテスト成績がクラスで一番になってしまいました.
これには担任の先生が驚きました.というよりも彼は最初自分の担当の社会科 で私の成績がトップであることを認めようとしませんでした.わたしは釜が崎の浮浪児であり,小学校に行っていない.体が大きく,その辺の餓鬼大将で、どうしょうもない不良だと決めつけていました.テスト結果を成績順に生徒に返して行こうとして,一番が私であると気づいた途端に,彼はその作業を中断し『テストは自分の実力を測る大事な機会である.よってカンニングや不正な手段で良い点数を取っても何の意味もない』生徒たちにそんな説教をしながら,私を睨み付けました.
この先生には,似たような苦々しい思いをさせられたことが何度もあります.それは全部水に流しましょう.この先生こそ,後に私の恩師のごとき存在になるのですが,『善良な』この教師を私は未だに人間としては信用していません.
私はこうしてこの中学で『秀才』と謳われるようになり,中学二年のとき昭和34年には大阪市教育委員会から『貧困の中で弟妹を助けて学業優秀』という特別表彰を受けました.まあそれはそれで良いでしょう.私の勉強に対する『吸収力』は私の小学校中退によるところが極めて大です.これと直結するのが適切かどうか分かりませんが『不登校』などはまったく問題ではないような気がします.私自身が何年も学校に行かなかったことは、むしろ私にとってプラスになり ました本人がやる気になるまで,学校なんて行く必要はないと思います.無理に登校させてますます勉強嫌いにさせるほうが問題です.
次は高校時代です.私は先の中学校から阿倍野区にある府立のS高校に進学しました.学区内にある一番の進学高校でした.中学時代は『非凡』な存在であった私ですが,高校時代は徹底して『平凡』でした.一応サークル活動もこなし,文化祭でも体育祭でも活躍もしました.学校長と対立して高校生である身分を捨てようとしたこともありました.(直言曲言『家出の話』参 照)まったくの片思いでしたが恋愛のまねごともしました.それもこれもごく普通の高校生によくある話です.書きたてるほどの話ではありません.そして三年後,私は大学に進学することになります.
2002.9.17
にしじま あきら