自分で自分が何であるかを決めた頃 - 2
これはこれは,どうもありがとう.途中書きこみ,飛び入り参加大いに歓迎します.大西さん
8年間通って中退とは,私より六ヶ月も長い!私も(法学部)卒業に必要なゼミの単位まで取っていたので,後は卒業するか中退するかの決断だけでした.tonさんありがとう!とりあえず,勝手に続けます.
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『私小説を書くつもりではありません』とわざわざお断りしたのは,多分に『私小説』的な書き
方になるのではないかと,私自身が懸念したからです.青年期の自分の思索について書こうと思えば,ある程度自分の人間形成に影響した事柄を書かざるを得ず,それを「あんたのつまらない体験談など読みたくない」と言われるのを怖れました.だから,そうした部分はできるだけ骨格にだけついて書き,ディテールは省いて行きます.
タイトルは『自分で自分が何であるかを決めた頃』であり,先に書いていますように私が大学を中退することを決意した前後の事情を書くつもりです.実はそうした心境に至った事情を説明するためにはどうしても私の子ども時代の育った環境を書かざるを得ないと思うのです.
私は大学を中退することになりますが,私の経歴に少し『非凡』な点があるとすれば.私は小学校も中退しているという点ではないかと思います.今では『学級崩壊』とか不登校とかで小学校や中学校にまともに通学していない子はざらにいます.それでも義務教育ですから年齢に達すれば高校への進学資格はあることになります.高校は義務教育ではありませんから,中退してしまえばそれまでであり,高校を卒業しなければ大学入学資格検定試験(大検)というのを受けなければなりません.
私が小学校に入った昭和二十年代というのは,まだ戦後の不安定な時期だったので義務教育とは言え,まだ学校に通っていない子もかなりいた時代です.私は兵庫県西宮市のある小学校に入学しました.その頃,私の父親はまだ辛うじて羽振りの良かった頃で,ランドセルや靴などもかなりの高級品を買ってもらって,学校では『お坊っちゃん』のような扱いを受け,父は担任の女の先生にもかなりの『付け届け』(ギフト)をしていたようです.私の父の仕事や,どんな性格だったか,どんな暮らし振りだったかを書けば,それこそ私小説になってしまいそうなので詳しいことは省きます.
我が家の暮らしが安定していたのは,私が小学校一年生の一学期くらいまででした.夏が過ぎて二学期になる頃には,引越し(実は夜逃げ)をして同じ西宮市内ではありましたが,よその家に間借りをして暮らしていました.私は三年生の一学期まで,その小学校に籍を置きましたが,私の記憶するだけでもその間に4回ほど夜逃げをし,それでもなぜか私をその小学校に通わせるためか,西宮市内ばかりを転々としていました.当然,学校へも続けて一ヶ月通ったり,三ヶ月休んだりという状態でした.
三年生の時の夏休みに,父は少しまとまった金をつかんだのか『夏の家を借りる』と称して大 阪府堺市の、ある海辺の二階家を借り,引越しをしました.それは『夏の家』ですから当然,夏休みが終われば西宮市内に戻って,また小学校に通えるものだとばかり思っていました.夏が過ぎて,秋が暮れる頃,私たち家族はまた『夜逃げ』をすることになりました.私たち一家六人(両親と長男である私と弟妹三人)は,銭湯に行く振りをするために洗面器にタオルを持って多額の借金のあるお米屋さんの前をやり過ごし,阪堺電車に乗り釜が崎の入り口である霞町という停留所で降りました.
そこから先はまた9歳であった私の、12歳くらいまでの苦労話(自慢話?)になるので,省略します.
とにかく,そんな訳で私は小学校三年までは辛うじて学校に通いましたが,その後はスラム街 である釜が崎に落ち着いてからも小学校に入学することはなく,ついでに言えば弟妹たちはまったく小学校に入学もせず,浮浪児同然の生活をすることになりました.
昭和33年になって,西成区で『不就学児童一掃運動』というのが起こって,私たち学校に行 っていない子どもがリストアップされました.私は地域のI中学の一年生に,弟妹たちもI小学校のそれぞれ五年生,三年生,一年生に編入させていただきました.一番下の弟だけは丁度一年生の学齢だったので,厳密に言うと不就学ではありませんでした.
2002.9.13
にしじま あきら