長崎事件に思う
長崎の女児による同級生殺人事件は大きな衝撃を与えた。カッターナイフで首を切るという殺害方法の衝撃度もあるが、これまでの少年事件のように女児に精神障害の兆候があると思えないことが、われわれの衝撃を倍増させたことは間違いない。事件直後に被疑女児に接見した弁護士は精神鑑定の必要性さえ否定した。私は、むしろこの事件を異常者による異常な事件として闇に葬りさる、これまでの方法の踏襲を恐れていたので、精神鑑定の必要性の否定はそれなりに納得すべきものと受け止めた。しかし、その後やはり『精神鑑定が必要』との判断変更がなされ、一弁護士の判断に委ねない権力意思の存在を感じた。
事件はいまだ審判結果の公表などに至らず、弁護士の接見情報などしか伝わっていないが、どうやらインターネット上の加害・被害女児のホームページへの書き込みを原因とする諍いによるものであるらしい。被害女児が加害女児のホームページに、容貌についての中傷やあだ名を書き込んだことに腹を立て、被害者を呼び出して用意していたカッターナイフで首を切ったというものである。 新聞報道等では加害児童の短絡的行動は非難されているが、被害児童の行動もいわゆるいじめや、行き過ぎた行動として、いわば当事者間の交友関係のもつれという文脈で理解されている。
その上で加害児童の<短絡的行動>が精神鑑定の結果、何らかの『精神障害』によるものであると鑑定されれば、事件は異常な個人間に発生した異常な事件として処理されてしまうのではないか。つまり、事件が起きた背景としての『社会』には何の問題もなく、つまり『正常』である『社会』の側が、『異常』な『個人』の出来事を<処断>することによって事が終わってしまうのである。
私は殊更に『社会の側に問題あり』として事を荒立てようとしているわけではないが、こうした事件の連続を『精神障害』=狂気の沙汰として取り扱い、当事者を社会的に排除=隔離することによって、社会を安泰化してはならないと考えている。 今回の事件の直接的なきっかけは、詳細はわからないのだけれど、インターネット上での対話(ホームページの掲示板またはチャットへの書き込み)によるものだと報道されている。こうしたWebコミュニケーションにおいては、当事者同士では事実上分かっているのだが、表面的にはハンドルネームという仮名が使われ、まるで匿名の知らないもの同士が対話するように、気軽で無責任な対話を楽しむ風潮が広がっている。
人と人とが実際に対面して行う対話においては、最近の若者や子どもは『人間経験不足』や『人間不信』から対話を深化させることができず、表面的で儀礼的な会話しかできないケースが増えている。Webコミュニケーションでは、こうした『遠慮』が一挙に外され、まるで世慣れた大人のように、冗談やからかい、時には辛らつな批評までが飛び交い、いわばバーチャルなコミュニケーション、架空の人間関係が形成されてしまう。
私は、このことの指摘によって、コンピュータによるWebコミュニケーションを否定しようとは思わない。ただ、ポケベルやPHSの普及を含めて、最近のパソコンの普及は、大人(親たち)よりも子どもや若者たちにより大きく普及している点に問題点を感じている。すなわち大人(社会)がWebコミュニケーションの『光と影』の問題点に気づく前に、子どもたちはWebコミュニケーションの魅力に深く捉えられており、『社会』はその対策も、その結果引き起こされる事態に対する『防衛』策も講じることができていないからである。つまり大人たちが手をこまねいている間に、子どもたちは商業通信事業者による誘いに乗って、新しいコミュニケーションの世界に深く迷い込んでいるのである。
もちろん冒頭に触れたような事件がおきたのは、コミュニケーション技術や機械の発達によるものだけではない。子どもたちの絶望的な孤立感の問題がある。『豊かだが出口のない競争社会』の中で、子どもたちは競わされゴールの見えない絶望を味わっている。絶望的な孤立の中にいるからこそ、彼らはアイデンティティ(同一性)を求めて、Webコミュニケーションの中に『友達』を探そうとする。掲示板やチャットの中では彼らは容易に友達を見つけることができる。あるいはWeb上でのバーチャルな匿名コミュにーケーションにおいては誰もが偽善者にもなれ、誰もが大悪党にもなれる。いわば意識の中では簡単に『神』になることも『悪魔』になれることもできるのである。
アイデンティティを求めてのバーチャルコミュニケーションの中で、彼らはバーチャルな友情を育むことができると同時に、相手の出方によれば憎悪と敵対の関係にもなれる。本当の『友達』だと信じていた相手が、自分にとっては悪魔のような悪口や中傷をホームページに書き込んだ。アイデンティティはとたんに消失して、憎しみの感情だけが肥大していく。同時に『神』にも『悪魔』にもなれるのであるから、相手を『有罪』として『処断』してしまうことも簡単である。カッターナイフで友達の首を切るという<異常>な行動を、単に<狂気>という言葉で片付けるのは簡単だが、その<狂気>の拠って来るところを見据えなければ、誰がいつ<狂気>を再現するかは永遠に見えない。
このような<同一性>の横暴のありようはどこかで見聞きしたことがある。アメリカのブッシュ大統領によるイラク攻撃である。あるいはイランや北朝鮮に対する『テロ国家』としての敵対視も同じではないか。アメリカは世界の民主主義国家の旗手として、民主主義に反する体制や国家があれば、むやみに戦争を仕掛けたり、出かけて行って体制を転覆したりすることを正当化している。アルカイダとイラクのフセイン大統領が協力関係になかったことや大量破壊兵器などがなかったことを突きつけられても、戦争の大義を否定しないことを見れば、アメリカは結局、資本主義やキリスト教信仰あるいはアメリカの言う『民主主義』と同一性を示さなければ敵だと宣言しているのである。
『同一性』を重視し、仲間を募り、徒党を組むことが悪いことだとはいわない。しかしその『同一性』に加担しなければ敵だとみなして攻撃するのは明らかな悪であり、横暴である。昨今の『いじめ』や無闇な暴力の横行は、こうした『同一性』の強要を背景にはびこっているのではないか。世界には様々な民族があり、言語があり、宗教があり、体制がある。そうした人々がそれぞれに持つ『異文化』が互いに尊重しあって、世界平和を維持していくべきである。そこでは『同一性』の強要には限界があり、むしろ『差異性』を尊重しあって共生・共存していかなければならない。『差異』を許さない非寛容な社会は、戦争や殺戮が支配する滅亡への道をたどらざるを得ない。それをただ『狂気』として排除するだけでも不十分である。正気のはずの現実社会が、アメリカの『凶暴』を許し、カッターナイフの『凶行』を生み出した背景を温存しようとしている。それを直視しない社会もまた同罪のそしりを免れない。
6月18日