呪縛からの解放
これまでにどれだけの若者達に出会っただろうか?また引きこもりの子を持つ親たちに出会っただろうか?70回に及ぶ『若者の引きこもりを考える会』、90回を越えた『鍋の会』、その他講演会、イベントの数々。延べ人数では7千人を優に超え、実質でも500人を上回る。しかし私が実際に出会えた若者は氷山の一角でしかない。100万人を越えるといわれる引きこもりの若者すべてに出会えるはずもないが、私が出会った親たちの中でも、おそらく半数近くにおいて、その引きこもりの子どもたちとついに、私は出会えないままになっているのではないか?
『若者の引きこもりを考える会』は1998年10月から5年半毎月1回開催し続けている。時により変動するが30人から120人の人が毎回参加していただいている。新聞やテレビで報道された時には参加者が殺到する。30人程度の小規模な会合でも、新規参加者が5名程度いらっしゃる。120名もの参加者の時は、そのほとんどが新規参加者である。もちろんそんなときは、参加者のお一人一人から詳しくお話を聞くことなど出来ない。大方の人は、私たちの一方的な話を聴いただけでお帰りになる。「引きこもりは個人的な病気ではなく<豊かで出口のない競争社会>が生み出した『社会病』である。」たいていはそんな話をする。この話で2割程度の親は既に失望している。なぜなら「わが子は心を病んでいて、具体的な<治療法>を知りたい」と思って、来ていらっしゃる方が多いからである。そんな方は、たいていその場限りの参加となり、もちろんお子様と私が巡り合うことはない。
『社会病』という言葉で現在の社会を批判することは<反体制>的な集団であり<危険思想>の持ち主であるから、わが子を近づけては危ないとお考えになる方も多い。
『引きこもり』は青年期・思春期に特徴的な心身症状であり、そのほとんどは受験教育など競争社会のストレスから<対人恐怖>や<友人不信>などに陥り、家族以外の人との交流を断ち、社会参加が出来ない状態である。親たちは<統合失調症>などの精神病を疑い、あるいは受験勉強に負けた<怠け者>や弱者だと考えている。親たちは、自分達が生きてきた現実社会を肯定的に捉えており、それを拒絶している若者を<負け組>として否定的にしか捉えられない。私たちは、<勝ち負け>を基準に過酷な競争を強いる社会を、高度経済成長の軌道をひた走ってきた20世紀の古い社会システムと考えており、それからの過渡期・移行期に生きる若者たちの悲鳴こそが引きこもり現象と捉えている。
私たちと接するようになった若者の多くは、仲間との信頼関係を築き、屈託のない笑顔を取り戻し、明るい日々を送れるようになる。ただし、私たちはそれで引きこもりからの<完全な脱出>が達成されたとは思っていない。一人の人間として自立し、社会参加が出来るようにならなければいけない。<社会参加>とは、簡単に言えば仕事が出来るようになることである。しかし、ここで再び、親たち、あるいは世間一般の見方と私たちは意見が別れることが多い。親たち、あるいは社会一般は<社会参加>とは株式会社に就職することであり、少なくとも毎日勤勉に会社に通勤することだと考えている。
ある新聞社が行った最近の社会調査で、子ども達に将来の『希望職種』を聞くと『大工、植木屋、調理師さん』あるいは『パン屋、ケーキ屋、美容師さん』などの具体的な職名が並んだ。同時に親たちに『子どもが将来なって欲しい職業』を聞くと1位、2位は『サラリーマン、公務員』だったと言う。何と言う貧しい想像力なのであろうか。親たちはある意味で『現実是認』であり、『安定収入』を望んでおり、まさに社会の大勢につくことを望んでいる。そのための競争社会が子ども達を引きこもりに追い込んだことを気付いていない。
ところが、私たちにとって悩ましいのは、引きこもり青年の多くは、内心ではこの親たちの意見に近く、現代の子ども達の意見とはかけ離れているのが現実なのである。受験競争の中で、不登校となり、引きこもりになり、負け組と自嘲しているが、内心では臥薪嘗胆、一発逆転を望んでおり、目標は『サラリーマン、公務員』あるいは様々な資格取得による特権を持った勝ち組への転進を狙っているのである。
私たちの周りにいる引きこもり青年の多くもこんな考えを持っている。もちろん、私たちは青年達のこうした<野望>を頭ごなしに否定することはない。『社会復帰』が出来るなら祝福して送り出す。少数だが見事にこの『社会復帰』を実現させている若者もいる。しかし、早すぎた『社会復帰』を目指す若者の多くは、再び傷ついて引きこもりに<リバウンド>してしまうことが多い。現実の社会は変わっていず、終身雇用制など既に崩壊しており、若者の就労を歓迎してはいず、使い捨てのフリーターとしてならともかく、働く意欲のある若者を厳しく冷酷な待遇で弾き飛ばそうとしているからである。
私たちは、こうした社会の現実を直視し、厳しく困難な道ではあるが、株式会社による雇用=社会復帰を望むのではなく、若者自身による仕事作り(起業)や仲間と協働しての創業などの社会参加=社会建設を支援しようとしている。しかし、それは若者の想像力を超えた目標でもあり、もちろん経験のない未知の世界でもある。
既存社会の中で、親や先生や学校から教え込まれてきた、競争を勝ち抜き、よい大学からよい会社に就職するという幸福追求への『絶対原理』は『呪縛』のように彼らを捉えて離さない。それは資本主義社会での市場原理でもあり、富(お金)の争奪戦であり、より多く得て、より多く持つ者は、より少なくしか持てないものの優位に立つ『競争社会』である。『競争社会』は今に始まったものではない。資本主義と社会主義の『競争』も、まさに競争社会の原理を内包している点において、資本主義による社会主義の放逐をもたらした。しかし、その資本主義もまた『競争原理』によって日本国内の産業空洞化や、戦争の泥沼化、地球環境の汚染などの悲惨な『終末』を予見させている。
しかし、私たちは若者達や子ども達の理性を信じたい。若者達の引きこもりは『終末拒絶症候群』といえるものではないのか?確かに、引きこもりの青年達は、捨ててきたはずの『終末』への道程を懐かしみ、機会あらばその道を引き返そうとしている。人間の絆を信じきれず、お金という呪縛から自由になれない。価値交換の手段に過ぎない貨幣を神格化し、それを神のように崇め、それを蓄える悪しき習慣に拝跪する。お金を稼ぐ手段としての株式会社を神殿のように崇め、その信徒になることを現世における救済のように願っている。お金の信徒になることを『勝ち組』と信じ、『負け組』を見下そうとしている。
時代は移り変わろうとしている。競争社会の神話と呪縛は次第に力を失い、新しい価値に目覚めた若者たちの力が新しい社会システムの誕生を祝福しようとしている。それが引きこもりからの脱出である。
5月27日